死を演じる

最後に見た風景 昔、伊島薫の擬似死体写真集がありました。絶版になった方は、中身だけ見ることが出来ました。こっちはその第2弾のほう。イジマカオルはそれはそれで、そのフェティッシュ溢れるコンセプトが好きですが、何か限界もあるなぁ何だろうと思っていたら、死体としての美学が、なにか私の思う擬似死体のあり方と違っていたからかもしれないなと思いました。
 この写真集の女優たちはほぼ全員、目を開けて死んでいるのね。この世を去るときは背中から倒れたい。目を見開いて世界を焼き付けて死にたいという気持ちは、=この世に存在した痕跡を残したいということなのかも。でもそれは、死体側のエゴだから。鑑賞する側に、死体の気持ちの残骸なんて要らないの。死を演じるものを見つめるとき、見る側は無になった骸に自分を投影したいものなんじゃないかと思う。ちょっと違うかな。でも何かを託してみたいというか。
 大事に思っている人が死んでしまって、棺桶に入っているその顔を見つめるとき、その静かな表情に、今にも目を覚ますんじゃないかと願望交じりに考える。と同時に全く逆の感覚、目の前の人がもう自分の知っているその人ではなくなってしまったのを、心底実感する瞬間でもある。非日常的な入れ物に入っているという状況も相まって、ああ、ただの抜け殻になっちゃったんだ…と思い知るのだ。表情が静か過ぎて何にもない。確かに見た目はあの人だ。でももうここに在るのは、かつてその人であったというだけの物体でしかない。昨年の5月、そういうことをずっと考えていた。
 個人を特徴付けるのは絶対的に容姿であり、「○○さん」、と誰かを思い浮かべる時にはその人の姿で思い浮かべるのに、親しかった遺体を眺めても、もう居ないんだと実感するばかり。生きている頃は、その人の容姿がイコールでその人だったのに、一体何が無くなって違うものになったんだろう。私の知っていたYさんは、ここに横たわっている冷たい肉塊ではない。その人をその人たらしめていた何か見えないものが零れ落ちてしまったから、肉体はここに在るのに、もう居ない人になってしまったんだ。じゃあ何が抜け落ちたんだと思えば生。それが魂なのか何なのかは知らないけれど、生のない身体=死なれば、じゃあ私たちは死である肉体に生が宿っているだけで、生を内包した死として生まれ、死に戻るだけなんですかね。どうでもいい禅問答だよね日本酒飲んでるから。何を書こうとしてたんだっけ
 恋月姫の眠り人形は、作家曰く「私の生み出す子は眠っているように見えてしまう。人形を死者として生み出すことは出来ないのだろうか」みたいな発言をどこかで読んだことがあって、すごく印象に残ったんだけども、「生きているように見えてしまったら、人形として失敗かも」という発想は深いなぁと思う。人形は人の形をした存在の概念なわけで、そのまんま人間のようだ、というのならば蝋人形でいいわけだし、江戸時代の見世物小屋の生き人形で良いわけ。
眠る 松雪泰子ロリータの温度 だからえっと、支離滅裂の頭を整理したら、イジマカオルのフォトワークって、もしかしたら眠りをイメージしたものの方が死を思わせるんでしょうかね。生きた人間が死を演技するときは、目を閉じていてほしいの。今にも生き返って目を開きそうだという、ほのかな期待を抱かせる物体にならなければ失敗だと思う。その際は絶対に、眠っているように見えないように。無っていう巨大な可能性を秘めた、きちんとした死体であって欲しい。死体を演じる人は頑張って。あんたの意識なんてどうでもいいから。生の側から死と対峙するっていうのは、そういうことのような気がする。私、夢見る乙女なので。死の美学とか、うっとりするくらい好きだから。
 私にとって人形はそういう存在で、だから愛しいの。今にも動き出しそうに見えて、単なる幻想でしかない。人間が生の側から死を模索するように、死の側から生を演じるものが人形だと思う。いや、バービーちゃんとかは、良い子たちのお友達ですよ?クソなげえな。よみなおすのめんどくさ。こういうマニアックな話で熱くなるのは、実生活ではまずこの手の話は出来ないんだもの。
 でもだから結局、『死体のある20の風景』が、それでも素敵な写真集であることに変わりはないんですけども。復刊を強く希望します。
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