罰当りとの境界は確かに曖昧で

mxoxnxixcxa2006-11-12

 そろそろ日本人の死者に鞭打ってもいいんじゃないの?と小学校の校長先生自殺のニュースを見て思った日。非常に無責任な責任の取り方だなぁ。
 お前の愛するものは禍々し過ぎる。むしろ屈折していて精神状態が甚だ疑問だ。これはグロなど呼ぶのではないのか、悪意や痛みをわざわざ見据える必要があるのか、理解できないと、蜷川実花ムーミンを愛する女子に言われますもにかですこんばんは。私だってそっち2つとも好きだよう。
「人形は恐い。だって目があって髪の毛があるから」と言う人がいるのも分かる知ってる理解してる。でも、でも!少女人形は美しいじゃないかだってだって永遠に年をとらないんだよ!最初から死んでいる少女こそ正しく少女の中の少女に決まってる!むしろ、生きていないことに意味があるのだ!と熱弁を振るいたいけれど、彼女を洗脳できるはずもなく、嗜好が違う者同士が分かり合うことは不可能なので、私は私の愛する翳りと禁忌と退廃のむせ香る悪趣味ワールドに耽溺するんですけれども。なんであれ、ある種の過剰さを持っているものは強力な引力を持っている。と思うの。
 肉体への暴力的なアプローチの中にタブーの蜜と棘を隠し持つもの、例えばヘルンヴァインとかベルメールとか擬似死体写真集(この日この日)だとか、フリークスへの見世物小屋的な覗き見趣味だとか。ダメダメ、私は見てないよといいながら塞いだ両手の隙間からしっかり見てしまうこの感じ。過度の拘束や自由を故意に制限されているものの持つエロス、つまりはコルセットドレスからボンデージファッションに至るまで、ひとによっては眼帯やギブスや緊縛や鼻フックなどいうのもあるのでしょうが、兎にも角にも、興味を持つこと自体がなにやらタブーのスウィートでスパイシーな匂いがむんむんむん。
 こうやって支離滅裂なことを構成も考えずにキーボードをぱちっていて思い出したのは、そういう悪意と愛情が紙一重の世界に、自ら飛び込むでもなく外野から覗いてこよなく愛している乙女にとっても、最後のタブーとしていることがありますよ、ということが言いたかったことなんだった。
 私は死の匂いがするものや、生命臭の希薄なものにとても惹かれていて、いくつかもなかで折に触れキモ長く語ってきたのですが、実際の死をいじくったものは手を出さないと決めていて、すなわち「美しい死体写真」だとか、そういった類のものは忌避したいの。
 西洋では死に対する捕らえ方が日本人とは随分違う為に、愛する人が死者となったとき、眠っているかのようなその亡骸を綺麗に飾ってあげ、愛情を込めて写真に収めるというのが特に抵抗なく行われて来たのか、愛くるしい幼児だったか少女の死に顔が表紙の写真集を見かけたことがあります。私にとって死とは、生の側から照射することに意味を覚えるのであって、対象が死そのままのものにどういう感情を持ってよいのか、むしろここに興味を示しては最後の一線を越えてしまって、なんだ、私はネクロフィリアになってしまうんじゃないかという気がしてきて、どうもだめ。