ファインアートってなぁ…

 ちょっと前、久しぶりに会った知人がマルコメになっていた。彼女はパンクなキャラではなく、大人しく物静かな、教養獲得に貪欲な生きることに不器用な子で、何か制作に悩みこんでいるという噂は、それとなく耳にしていたけれど。
 私をみつけて笑って手を振った彼女を見て、え?と思ったんである。ニット帽をかぶる彼女の服装からして帽子は浮いていて違和感があるし、毛髪が一切はみ出してしないのも不思議な感じ。「まさかね」と思いつつも、どこかこう、もしかしたら彼女ならやりかねんな…とも思ったわけで。
 彼女の面白さは、一見ほのぼの系で笑顔を絶やさない見た目と、作品の激しさとの乖離だった。物静かなお嬢さまなんだけれど、それゆえに、無理に社会にもまれて妥協を余儀なくされる生活をしていないので、ある意味感情や思索に素直に生きることが許されている人。哲学好きにありがちな、思索に溺れてしまうタイプなのは知っていたけれど。私はどこか、彼女はどこかホンモノ(というと語弊があるけれど)というか、一寸気になるというか、ある種の脅威やどこか認めざるを得ないもの、私の持ちえなかったものを持っている人と感じていたんだと思う。彼女はよくいる、「ほほら、アタシ他人とは違うでしょ!」アピールしたがるエキセントリック演出少女、もしくはメンヘル自慢乙女とは遠かったから。
 で、彼女の作品を見たときに、ああ…やっちゃったんだ…と言葉を失ったんだった。その直前に本人の笑顔を見ていただけに、余計にショック。作品は一見して人毛で、それがもう、作品と呼んで良いのか迷うほどに、どろどろした混沌のままだった。墨の滲んだ土台の綺麗なマチエールは、近づくと母体みたいな人毛の形状の生々しさに完全にのまれていたし、墨に所々混じる鉄分を含んだ赤は、直接的すぎた。何となれば、みなかった事にしてあげたかった。
 得体の知れないパネルを眺めていると、久方ぶりなのか、もしかしたら初めてかもしれないくらいに、他人事で胸が締め付けられるほど苦しくて、うっかり涙が出そうだった。それくらいに彼女の作品は、苦しくてたまらない迫力ある駄作だった。裸に墨をかぶって紙の上を転がったんなら、そのまま床に敷き詰めて、その上に血でも髪でもばら撒けば良かったのに。中途半端に造形してパネルに納めてしまう律儀さが、とても苦しい。中途半端に律儀にしておきながら、他者の理解を作品が拒否しているから、余計に痛ましいのだ。なんて悲しいオナニーなのだろう。
 作品ていうのは、ただただ己の恥部をそのままに吐露すればよいというものではない。鑑賞者に向かう冷静な視線が根底になければ作品として成立しないのだ。個人を掘り下げて自己探求をテーマに据えたとしても、そこには在る程度他者が自分を反映させられるだけのふり幅がなければ、共感性を持ちえない。もしくは、一部の余地も残さず世界を作り上げてしまわなければ、ぼろぼろ剥がれてしまう。どちらにしても、こうみて欲しい、これがみせたいという明確な核と説得力がなければ、作品は成立しないのだと思う。
 学生時代、「美術作品と趣味の作品の違いは何か?全く別の地軸のものか、一方が一方を内包するのか、一部が重なり合うものなのか」と先生に訊かれたことがある。1週間悩んで、「気持ちの問題」としか答えられなかったけれど、ギャラリストでもある先生の答えは、「一緒にしてくれるな」だった。「美術史に参加する気持ちがあるのかないのか、両者は全く別物」。
 何かをつくることって、本当に苦しいことなのだと思う。むしろ、つくり続けていくことは、とんでもなくしんどいのだと思う。手を動かすのがただ単に好きだっただけのはずなのに、そんなことさえ思い出せなくなってしまうこともある。つくったところで、やめたところで、どこにも何の影響も与えることが出来ない。  でもまあ、デザイン系にいっときゃ、職のつぶしがもっと利いたかもなんて10回に1回くらいは思わなくもないんだけれど、これから美大を考える若い方がもしかしてここを読んでいたとしたら、ファインはしんどいぜ!でもお勧めだよって言いたいの。でもでも、その後のでっかいリスクは自分で背負うのよ。でも、行ったらいいよ。