絵描きの町へ

mxoxnxixcxa2007-04-10

 エイプリルフール、私は友人に誘われ、10年続いているというスケッチ合宿のお仲間に加えていただき、三重県の大王崎というところへ行ってきました。みなほぼ年上の方々。勤め人から主婦、絵描きまでどこまでも濃いキャラが揃っていました。しかしね、こっち系の人間のいいところは、基本的にみな優しいオタク揃いという点で、初対面にもかかわらずとても居心地が良いんだよね。カルトな映画話がここまで通じるなんて!と私は薄っすら感激さえしました。
 ここは絵描きの町と呼ばれているらしく、その名の通りにどこからどこを眺めても、どこをどう切りとっても面白い眺めの静かな所で、太平洋の高い波に削られた丸い石ばかりの海岸に町ごとせり出しているような、坂と階段と迷路のようなせまい道が印象的だった。スケッチブックと鉛筆セットを一応バッグに詰め込んでデジカメ片手に探検すれば、いたるところに廃屋。
 私は何だか、かつて人のいた名残のある場所、誰かが存在していた痕跡、けれどもう捨て去られて置き去りにされたもの、時間が止まったままひっそりと忘れられたものをすごく美しいと思っていて、廃墟ブームにも乗っかって行きたいと考える乙女なんだけれども、この町はいたるところ人に捨てられて朽ちていく生活の残存が転がっていて、その真横にはここで生きる生活者の日常があって、という独特の雰囲気はとても魅力的だった。退廃ではなくて、もっと静かで優しくて、日常的な感じ。
 石も岩も海も石段も灯台も岬も綺麗で、真っ暗な夜も黒い海も波の音も潮の匂いも、全部いい。けれど、ここで暮らせるかというと、まずないなと思う。はがれた壁や穴の開いた屋根や、置き去りにされた調度品や破れたドア、その庭にある閉ざされた井戸を美しいと思うのは、ここで生活を送る人たちには失礼なことなのかもしれないけれど。けれど、もうそこにはいない誰か、かつてそこにいた誰か、誰かを失って朽ちていく無機物たち。そんなものを見つけると、なんだかそこはかとなく少しちょっとだけなんとなく、すごく広範囲でおぼろげなんだけれど、「存在する」ということについて、理論ではなく感覚で触れたような気分になる。然るに、そこに在り、やがては消えて、忘れ去られていくみたいな当たり前のことを当たり前だったんだと思い出すのだ。存在という単語が隣合わせで内包する消滅と忘却っていうか。やがて失われるという可能性もしくは事実があるゆえに、存在って概念が成立する。
 私は理論的な人間ではないので、脳内で思考を構築するのが苦手で、なにかモノに接するとか出会ったときに、ぶわわわあと実感するんだった。で、言語変換出来ないの語彙が足りなくて。何が言いたかったってつまりはすごく良いところだったよということでした。