鬱はどこまで理由になるのだろう

mxoxnxixcxa2006-06-12

 くさくさしたエントリーを書きっぱなしで私が数日の間ちょくちょく考えていたのが、うつ病の知人のことです。その人はほぼ同ジャンルに身を置く人。以降うつ病の方は読まないでください。私的感情に任せて糾弾するので。自分のことを棚上げして。超長い愚痴を。
 わたしばかこの無能。無価値で頭の固いろくでなしごくつぶし才能ナシ。ああもう生きているのが申し訳ない生まれてきてすんませんでも自殺はしたくありません死んでまで迷惑なんてと、建設的でないことばかりを考えてしくしくやりつつも、やらなければいけないことは消えてくれるわけでもなく、やはりやらなきゃいけなくて、じゃあやるならそれなりにやらなくてはいけないし、なれば気持ちを切り替えて、しっかりしなきゃ益々意味のない人間になってしまうどころか、適当なものを出せばもっと自分をダメ人間と思ってしまうし自分の評価も下がる。下がるほどに、生きているのが申し訳なくなってしまう。
 お外で笑いながら自宅で不甲斐無さに泣きつつ、困難な状況下でも取捨選択の算段を図るのが社会性というか、普通の人間なのだと思う。「今回こそはもう無理」と思っても、「無理」は通らないのが普通。普通の人。この際、何を捨てるかというと、このあふれ出る感受性なわけで、女々しい存在不安と個人的葛藤は、優先順位を考慮して二の次に。ああもう死にてーなと思いながらも、実際に本気で死ぬ気がないなら、日常を放り出すことなんてできない。普通の人だもの。
 そこへきて、その「普通」を超越できる人もいる。うつ。その知人は躊躇なく、そのとき取り組んでいることも放り投げて寝込んでしまえる。あれ、来なくなったなぁと思えば、うつ病だから。かわいそうに、彼は鬱なのだ。メランコリーも病名をもらえばオッケーGO。憂鬱さもラベル付けしてもらえば許してもらえる。「だるい。しんどい。もういやだ
 ダメなときは何をやってもダメだとしか思えないし、苦しいときは苦しいというのもわかるつもり。しかしながらむかつくのは、鬱病の人の持っている妙な万能感なんである。真面目で完璧主義の人間がなりやすいといううつ病。しかしうつ病。それは、言い換えれば頭が固くて融通が利かない不器用な屁理屈屋ではないのか。
 こんなものに何時間も使うの?といったところでも、完璧を目指す彼。疲れるだろうなと思ってみていると、見事に疲れてスイッチが切れてしまい、雲隠れ。それがうつ病の真面目さなんだとしたら、単に効率を考慮できない人ではないのか。何もかも完璧に出来るはずないとは思わないのだろうか。自分なら出来ると思うんだろうか。0か100かしかない全力投球。入浴にかなり時間がかかり、毎日そんなに時間をかけるモチベーションがないために、毎日入浴する気力が出てこないと言うその理屈は理解できない。そんなに融通が利かないと生き辛いだろうなと思うけれど、実際生き辛いのだろう。
 その知人は親と同居し、生活全般、食事の用意から洗濯にいたるまで、おそらくもう初老であろうかと推察される親の面倒になっているくせに、「もにかの親は賢いんだ。いつまでも馬鹿な娘というのもきつそうだね」と言いつつ、「でもうちの親は馬鹿でものを知らないから」と言う。常から親を叱ってばかりなのだそうだ。ご両親が無教養なのかは知らないけれど、どの口がそんなことを言えるのだろう。おまえは何様か。インテリジェンスなの?三十路で親に養ってもらい、それどころか、彼は洗濯物をラベルの表示通りになされなければ納得できず、自分でやっているのかと思いきや、親を叱りつけてやらせているのだそうだ。「手洗いと書いてあるでしょうが」と。曰く、靴下とタオル以外はすべてが手洗い。私は年下ですが思いました。ちょっと頭おかしいんじゃねーの?あ、うつ病ですかそうだよね。脳内のセロトニンの具合がちょっと違うのだ。
 私は数日泣きながらやるべきことに手をつけつつ、考えました。一過性のは別として、うつ病はずるい。しかし羨ましくない。苦しいと、何もかも放り投げて退行する苦しみ方に同情なんてできない。病気に逃避しているんじゃないの?凡庸な普通の小市民でも苦しいときはある。けれど普通の人がそれでもふんばっていても、鬱ならいいのかよっていう。そんなことをずっと考えていました。肝に銘じている言葉があって、曰く「絶望は傲慢さの裏返し」。理想形が実現可能の範囲を超越して高すぎるから、絶望してしまう。そういった傲慢さが通るのは、思春期までなの。慢性化したうつ病持ちは、絶対に人格上の問題なのだと思う。
 他にも鬱の人を知っているけれど、その人は私の生活にもっと近い人間だから、ある時期が来ると非常にきつかった。「こうあるべき」ことがその通りにならないことが、彼女にとっては苦痛なのだった。そのイライラを周囲にぶつけていた。気を許せるから素直にそういう感情を出せるんだろうけども、周囲を巻き込んで振り回すので、すごくきつかった。その点、彼なんかは私の生活には関係ないし、面と向かえば、不器用なまでに真面目なので気の毒にとも思うけれど、場を離れて彼のことを思う時、なんだか納得いかないことだらけ。苦しんでいない人間なんていないのに、“うつ”とラベル付けがなされれば、無責任も通る。「しかたないよ、鬱なんだもの
 実社会で、うつ病の人を糾弾しようとすれば、心を持たない思いやりのない人間呼ばわり。他人の弱さを許容できない了見の狭い人間。でも、みなそれなりに悩んでいるのじゃないのか。きついのはあんたらだけですか。よく、「他人が気にしないようなことでも、自分の心にぐさっと来ることがある」という人もいるけれど、繊細さと自意識過剰は違うんじゃないのか。弱さと自己中は違うでしょうが。真面目さと自我の強さは別物じゃないの。
 でも私は多分、自分はまだマシだと思いたいだけなのだ。ずるい人。気を抜くと自分に疑問を持ってしまう。それで動けなくなるくらいなら、ネットに穴掘って、他者にダメ出しでもしてでもすっきりしたいの。私はマシ私はマシ。彼が投げたものを、私はぶーぶー言いつつも投げたりしない。この一点だけでもいいから良しとしたいの。私は強い強い強い強い強い平気大丈夫まだいける。言っているうちに、こんなことはなんでもなくなるはず。