女子痩せスパイラル

mxoxnxixcxa2006-03-03

 私はああ大人になってきたなと思ったのが、たまに行く何やらには一目で拒食症だなという女子がいて、トカゲみたいに痩せこけて小さくなってしまった顔をしていて、長袖から出る手の甲も細いと言うよりはもう小さくて、動きはスローモーで、口がぼんやり開きっぱなしで、折れそうに痩せている。
 仕事の対応も凄くのろくて、たぶん思考の速度も遅くなって、きっと長い患いなんだと思う。今までは拒食症の女子を見ると、ああナニはまっちゃってんだよ自意識過剰なんだろうな。など同情も憐れみも抱けず、とても冷たい感情しか持てなかったのは、私も過剰な痩せ願望にはまったことがあり、痩せを極めることで自分が何かいいものに生まれ変われそうだと思っていたことがあったからだった。
 欲しいものも手に入らない、成りたいものにはなれない、こんなはずじゃない、何一つうまくやれない、何一つ思うとおりに出来ない。そんなことに囚われたとき、痩せが忍び寄ってきて女子の思考を支配してしまう。肉気を落として綺麗になりたい。今よりもっと痩せたら自分を肯定できるかも。もっと自信がもてるかも。10代の頃、そう思ってダイエットにしがみついたのだった。
 成熟した女の脂肪質の柔らかな肉体は何だかそれだけで性の官能の象徴みたい。そこに過激なダイエット競争や摂食障害が絡まりつくと、抜き差し成らぬ事態になる。むっちりした肉気が許せず、そんな肉のついた自分の肉体も許せなくなると、もう痩せたいから痩せたいのか、女で居たくないから痩せたいのか、とにかく得体の知れぬ焦燥に押されてがちごちになる。大人の女にあこがれる一方、成熟へのつかめない恐さを感じていて、不安でたまらないから足踏みしていたかった。
 そんな時期を通り過ぎても、いくつになっても女子は体重と取っ組み合いをしている。やせたい綺麗になりたい自信を持ちたい。拒食症の激痩せ女子を見かけると、何だかその女子だけが抜け駆けをしているように思えたのかもしれなくて、私は多大なる嫌悪感を持って軽蔑の眼で眺めて来たんだった。たぶんどこかで羨ましかったのだと思う。食欲という罪悪感から開放されている感じとか、脂肪という汚物に犯されていない肉体とかが。
 で、その見るからに拒食症の成人女子が、今日も今日とて血色の悪い紫色に筋張った手で、のろのろとあれこれを処理しているのを見て、ああ可哀想だなと思ったんである。こんなになって可哀想に。生きにくさは痩せたって埋まらない。痩せても痩せても底なしの痩せに飲み込まれるだけで、いつまで経てども自分を肯定する日なんて来ないのだ。自信は容姿云々じゃ如何とも成し難い。彼女の口臭と細い髪の毛と、服が余ったがりがりっぷりとぼやけた目つきに軽蔑じゃなく気の毒な気持ちが湧いたのは、「痩せなきゃいけない」と常に思わなくなり、何が何でも痩せてなきゃいけないという青臭さを少し脱したって事なのだわと思った、そんな日だった。そうはいっても太りたくはないんだけれど、そこそこで折り合いをつけ良しと出来るようになればそれで良しみたいな。