少女こっこ

mxoxnxixcxa2006-03-05

 Coccoが活動再開と知り先日Mステを録画してみた。あいた困ったな。明らかに時代についていっていないのだと思い知った日。出てくる人を殆ど知らない。しかもそんな事態もどうでもいいやと思っている時点で、私から若さは確実に失われているんだった。
 色々ちぐはぐで、正直「彼女はCoccoである」というのを抜きにして眺めれば、なんともはや私は確実にイヤな奴なので、本気で自分に疑問を感じ世間様の反応を知りたく思って便利なキーワード検索で覗いて回れば、Coccoは保護者の気分になって見守れば良いらしかった。
 皮肉屋の偏屈者だったので、Coccoの曲は好きだったんだけれど不思議ちゃんキャラにすごく嫌悪感を覚え、露出の仕方やその他に大人の手が入ったあざとさを感じて非常に冷めた目で観ていた感じがないでもなかったのは、人間の純粋さを信じない私に問題があるので、Coccoファンの方は怒らないでください。
 秀逸だった「ブーゲンビリア」と「クムイウタ」を頂点に、どうも“純粋無垢なる少女性”というキャラが煮詰まり、どんどん本人にしか分からぬ歌と信者にしか理解できない世界に沈んでゆき…と思っていたら活動休止へ。「Coccoそれはけがれなきもの」みたいな位置づけに、年下ながら何となく同じ性別として違和感を覚えたんだった。
 思春期の少女の過敏さは、「私は誰なんだ」「私は何か特別な存在でありたい・そうに決まってる」とか、主にはその2点で出来上がっていて、剥き出しの自意識や未熟な自我に振り回されるゆえ、独特の鋭さや傷つきやすさや残酷さを持つ。Coccoはそういった未成熟な女子の生理に形を与え個人的な歌を歌いながら少女の普遍を描いて、孤高の表現者と言えばそうだったのだと思う。
 しかし大人になれば、許せないものや甘受できないものに対して諦めや許容が出来るようになってくる。棘は丸くなって痛みも鈍磨して、少女時代に開いていた部分、感受性の豊かさや過敏な自意識なんかは知らぬ間に確実に閉じてゆく。「私が誰であろうとよろしいわ」というか、「そんなことより日々の雑事が」となる。その部分を手放していってるのに、求められ続けて必死で踏みとどまろうとして立ち行かなくなりそうな人、休止しようという頃はそういう風に見えていた。演技が本気で本気の演技みたいな自己陶酔に見えた私は人を信じないひねくれ者だった。
 表に向いたキャラに本人が望んだ以上の崇拝や依存を受けると、相当な強靭さか、もしくは強力な自己愛でカバーしないと、重たくてやっていけないんじゃなかろうか。だからミュージシャン自身がどんどんマイワールドを煮詰めて信者にしか分からぬ人になって行くか、もしくは依存の対象を求めて自身が宗教に走るなんていうこと起こったりする。そういえば鬼束ちひろという人は、最後に切ないまでのキレっぷりを披露して消えて行った。ドラッグに溺れて死んだのはコートニーの夫。
 大人になったCoccoの「音速パンチ」。タイトルがアレでも音程が不安定でも、こっこだからアリ。というキャラが前提にあるような感じ。感性を前面に出したタイプのシンガーで、1st以上のアルバムが出ない人は割と多い。フィオナ・アップルもそうだし、アラニス・モリセットも林檎もそうかも。少女の鋭い感性は豊かで旬が短くて、非凡なる表現者が、少女の荒々しさを越えてどう次の展開へすすむのかは大変だろうなと思った偏屈な凡人がいてよく見たら私だった。
 だらだらだらキモ長く打ちまくっても思ったのは、どうしてこっこがテレビに出るのか、そういうことを考えたら何か大人の匂い。私は今酔っ払っていていつも以上に支離滅裂なんだと思いましたというかこの文章、私自身が相当痛い子ちゃんみたいな