京都人と私

 8月の頭に、なんとなあく「○○を扱うところはあるかなあ。東京某店は最近縮小で」なんて自力で調べつくしもせずに気安く口にしたことをわざわざ調べて、これまたわざわざ連絡を下さったOさんと会う。ものすごく嬉しくて、もなかにも書いたんだけれど、Oさんは職場のリストをコピーしてくださるにとどまらず、某問屋様にも訊いて下さったとの事。
 この問屋の若様はイチローとカズの間にいるような感じのお顔でにこやかで、今年の冬にこれまたOさんを経由して、某を小分けしないところを特別な配慮を頂いて売ってくださり、暖かい手紙を添えて某を送ってくださった優しい問屋様なのです。今回だって、外回りのついでに私の居るところへ立ち寄ってくれ、あちこちに訊いて下さった結果を夜にわざわざ私の宿付近まで来てくれた上に、サンプルを受け取り、じゃあこのように頼んであげるよ、とおっしゃってくださる。ご自分の商売には関係ないのに。嬉しくて失神しそう。
 いやはや、本当に、何故そんなに親切な人達なのだろう。何者でもない小さき私にこのような厚いご好意。普通に考えるとありえないくらい親切なので、これは京都人の気質、「断られることを前提にした申し出」だったりもするのだろうか。ちょっと良い人過ぎて恐い。にこやかなのは、単に何代も続くお商売人だからなのかも、京都人は顔と腹が違うって聞いたよ。など疑い出せばきりがなく、それは一寸失礼な解釈かもしれず、ますます穴に嵌ってしまう。
 私は生粋の京都人が読み切れず、暖かい好意に何処まで甘えてよいのやら分からぬので何処までも甘えてしまうんですが、いいのでしょうか。京都の粋な文化は、「まあ、あがってぶぶ漬けでもおあがりやす」「いつでも遊びによってくださいね」など、100%お愛想のご挨拶が息づく雅なところなので、本音を言うと不安でもあるのです。じゃあ京都人を頼るなよ!と言われても、いや、Oさんはその道の人だから、つい…。いつも笑顔を絶やさぬ感じの良い人なのです。
 生粋の大阪人というと、いつどんな時だって本音トークというイメージがあるけれど、そのすぐ隣の京都は何故こんなにも奥ゆかしいのだ。ぜんぜんぜん読めない。好かれているのか嫌われているのかもわからない恐い。優しくされる=好かれているとこの際思い込んで生きたいです。大阪京都、この気風の違いは何?東京人と神奈川人はそんなに違うか?神奈川人と千葉人は?など文化人類学者になりかけ、すぐにどうでも良くなった。地元愛というのが絡めば、みな違うのかもしれなかった。
 どうしてそんなに優しいのだ。私がいい人だから?うそ。私がクールでキュートだからだ。うそ。口と本音がそれぞれに独立しているという京都人。「ああ、もにかってお人ぁ、いけ図々しいやっちゃ」みたいなことになっているのじゃないかしら。恐いよー恐いよー。すみません、私はその優しさに何で答えればいいのでしょうか。「そんな、わるいですから結構です」など言って断るべき?せっかく言ってくださっているのに?
 その親切に泣くほど喜びながらも、相手が京都人となると、ふと立ち止まるのです。私は何度も深々と頭を下げ、何度「ありがとうございます」を連発したのか分かりません。ちょっと、異様なほど恐縮していると映ったと思います。