『メゾン・ド・ヒミコ』

mxoxnxixcxa2005-09-20

 京都でちょっと時間が空いたので、新京極にある「MOVIX京都」という映画館で『メゾン・ド・ヒミコ』を観た。とても大きい映画館で観やすかった。  メゾン・ド・ヒミコ公式
「珍獣を見るかのような描かれ方がヤダ!」というゲイ側の声もあったので、そんなもんかなと思って観た所、まあまあ、何もゲイの生態のみを描いた作品じゃないわけで、まあまあ。けれどなんだか盛り込みすぎて散漫。ゲイ云々を脇においても、生と死、若さと老い、美と醜、性と性、父と子、母と娘、家族、人との繋がり、孤独、痛み、どれもが全部それなりのままで、物足りない。
 リアリティが何にもまして素晴らしいとは思わないけれど、実録・あるゲイの肖像みたいなそういうリアリティじゃなくて、死と向き合った人間や、愛する人との死別を前にした痛みや、老いの悲しさや醜さも、憎しみや孤独感も、今ひとつ。そこへきて「ゲイって?」という好奇心も盛り込んであるので、だからなんだ、やっぱりもうひとつ。ファンタジックという枠から出ていかない気がした。
 老人ホームを舞台に選ぶなら、ホームの人々は各々の人生を歩いてきた一人の人間として描かれるべきなのに、その部分をステレオタイプに仕立ててあるので、なんだかな。彼や彼女たちは何を見てきたの?どこをどういう風に歩いてきて、何故セクシュアルマイノリティだけのホームで最期を迎えたいと思っているのか。ヘテロの世界と非ヘテロの世界はどうして隔てられているのか。そういう性に関する部分を、「いや、だってゲイだからさ」という段階で思考停止しているような気がした。老いとは何か、死とは何なのかという部分も、老人の視点でも若者の視点でも描かれない。この映画の彼らがヘテロのホームではなく、ゲイのホームを選んだにはそれなりの理由があるはずで、その理由は何かっていうとセクシュアルマイノリティとして生きていくことや、生きてきたことの難しさがあるはず。そりゃもう絶対にあるだろう。
 実際何かの映画雑誌で、犬童一心監督がゲイについて「向こう側に行った人、向こう側を選んだ人」と言っていたので、うーんと、そうだとも言えるしそりゃ違うなとも言えるしで、なんともはや兎に角、ナマ感の薄い、雰囲気映画。
アカルイミライ 通常版 [DVD]「なんか、愛とか意味ねえじゃん」。これが一番印象的なシーンだった。人間の曖昧さを演じて上手く嵌る役者は結構少なくて、『アカルイミライ』同様に、無色無個性なオダギリジョーは適役。ジョーじゃなきゃダメなの!とかって乙女化しそうなくらいにすごく良かった。春彦役はやり方しだいではもうどうしようもなく鼻に付くナルシストになったと思う。非演技中のジョーは一寸「…まあまあ、落ち着いて」と言いたくなる様な気もするのですが。
 人間は悲しければ泣き叫び、怒れば怒鳴って大暴れするような単純な生き物じゃない。そういう複雑で曖昧な存在を、田中泯オダギリジョー柴咲コウ西島秀俊は好演していて、弱い脚本を俳優の演技で支えている作品だった。本当に、柴咲コウがはじめて魅力的に見えた。刺々した女子はなんだか苦手だったんだけれど、彼女の屈折した目つきや、「あやまれー!」と意地になるシーンや、喪服姿の不細工な泣き顔、それがとても魅力的だった。
ジョゼと虎と魚たち(通常版) [DVD] この作品が重いテーマを孕みながらもふんわりと流れていくのは、多分脚本が散漫だからだと思う。監督は結局何が一番やりたかったの?『ジョゼと虎と魚たち』と同じチームでも、ジョゼの方が、数段良かった。ファンタジックな雰囲気の中にある種の普遍性があって、見終わった後しみじみと感じ入るものがあった。
 思いついたことを一気に書いてみると、こういうだらけた感想になっちゃったよ。でも全体的に心地よい作品で、細野晴臣サウンドがとても良かった。