ちょっと発掘した

mxoxnxixcxa2015-12-23


「もうすぐ3年になる」と書いているのなら、きっと3年前あたりにパチパチ打ち込んで放置していたんだろう、もなかの下書きファイルが出てきて、ふうん。て思っているところ。
 もがいていたころだ。でも基本的には特に変わってないなあと思う。
 誰も知らないところに来て、昔からの知人も、過去を知る人も誰もいないところに住み着いた。それが外国でも、どこに住んでも基本自分が変わるわけでもない。自分を変えたくて場所を変えたんでもないけれど。けれど私は色々と対処できたように思う。
 外国人として、優しい異国の人たちに囲まれていても、時々どうしようもなく孤独なんだけれど、だけどものすごく生きやすくなった。妹か、言われれば居たような気もするなって思う。と思おうとしてるのかは知らない。でもここでの人生には関係ないし、過去がないからすごく気楽。
今の私には、なんていうかこう、苦い痛みの残る過ぎたこと。どうしようもなかったそれだけ

以下そのまま忘備録


 ここまで歩んできた人生観も、家族構成も関係性もバックグラウンドも全く違う、趣味の共有も価値観の共有も特になく、普通に生活していれば接点もないほどの他人と、たったひとつ身内が自殺したというだけで、繋がることができるのだろうか。人間はそんなに単純だろうか。
 そうだそういうものだと思えばいいんだけれど。でもでも誰にも何も言う気が無いの。だって他人に他人が理解できるものだろうか。無理に決まってる。親子でも兄弟でも友人でも恋人でも無理なのに。
 伝え合う分り合うその為に言葉があるのはわかってる。でも誰かと共有する言葉はいつも不自由で、各々の思いの丈を並べて擦り付けるぐらいで、その通りに伝わるわけでもない。ただお互い自分の泥を吐きたいだけなんだから、だったら知らない誰かを相手に無名で垂れ流して自己憐憫して満足していればいいだけの話じゃないのか。
 シチュエーションなんて人の数だけ違うというのに、「自死」というワードだけで生き残った者が繋がることができるなんて、嘘でしょ人間はもっと複雑な生き物でしょう?だから各々の身内も独りで死んでいくことにしたんでしょう?私が自死遺族の会とかそういった類の集いに興味が無いのは、そういう理由だと思う。
 言えないこと、言ったら立っていられなくなること、この際もなかにで全部書き出してしまい、そのあとすぐ削除してしまえば、私は楽になるだろうか。私がどうやって妹を切り捨ててきたかを、どうやって自分だけを守ってきたかを。その詳細はきっとどんなに酔っぱらっても、どこにも呟かない。でもそこまで酷いことを私はしたんだろうか?一生黙って背負っていかなければいけないくらいのことを?ただ、自分の人生を選んだというだけで?
「あなたを大切に思って生きていこう、あなたを忘れずに生きてゆこう。」
 生きている間に助けなかったくせに。むしろちょっとだけ逃げたでしょう。それで、その「あなた」と向き合ってきた時間のあり方が違うのだから、ただ喪失の一点を捉えて分かり合えるなんて、そんな無謀なこと、ただただ空しい。
 人間の価値観は多様で、人の数だけ向き合い方がある。真実や事実だって、人の数だけそれなりの正解がある。自死遺族の会なるものに興味が無いのはそういう所。自己満足に浸るには己の罪も同等に重くせに。だから全部に目をつぶって、私は私を守って生きていく。先に死んだ人間にとらわれずに。それの何が悪いのか。
あなたを忘れないよ、あなたの死に向き合って生きてゆくよ」と言うことのできる人の優しさとか懐の深さとかに、素直に胸を打たれる。なんて優しいのだろう。もしくは、そんなことを言える自分に酔っているのではないだろうかなど考えてしまう私は、やっぱり何かが欠落しているのだろうか。でも許せないの。こんなに傷つけて何年たっても私は何も許せない。自分の事も妹の事も家族も何もかも。私はどこに着地すればいいのだろうか。
 第三者になって自分を眺めて、一体何が私に欠けているのか知りたい。他人の事なら、ああこの人こういうタイプだな、こういう事が見えてないな、なんて分かるのに、自分のことはどうしてこんなにも客観化できないのだろう。
 私に残ったのは、狭量な自己憐憫やら、なにかこう納得のいかない憤りのようなものだ。どうして私は死者への慈しみや思いやりのような柔らかな感情を持つことができないのだろう。どうしてこんなに自分中心で冷たいんだろう。
 だって許せないの。寂しくてたまらないから。許せない許せないのもうすぐ3年になるのけど許さない私を置いていくなんて。私は妹と違ってこの先何年も生きていかなければいけない。あれもこれも約束したのに。約束してたのに。約束したのに。私を置いていくなんて私を置いていくなんてこんなに傷つけて。でも一緒に住もうかっていうのを破ったのも私だった。でもそれって、義務か?妹を背負うのは私の義務だったか?
 私の憤りの根は、罪悪感なのだろうか。「苦しい助けて」みたいな電話を受けていた人間が、のんきに「あなたを忘れないよ」なんて思えるか?私は見殺しにした自分が許せなくて、それで結局こんな事態に私をぶち込んだ妹が、どうしてもどうしても許せない。
 一体いつ終わるんだろう。終わらせるのは私自身なんだろうけれど、じゃあそのいつかは、いつ来るのだろうか?
 だから出来ることなら、妹は居なかったことにして生きていきたいのだ。妹を思い出さない日はない。けれど、うっかり写真なんかを見てしまうと、背後からどでかい鈍器でぼこぼこに殴られているような感じで立っていられなくなる。
「忘れないよ」っていうことは、この無言の暴力を一生背負うということなんだろうか。そんなこと背負っていけるほど人間は強いものだろうか。何か自分に都合のいいストーリーを仕立てて、美化して納得しただけじゃないのか。
 背中から何かに壮絶にぼこられていて立っていられなくなる感じだ。私はいつか取り戻せるだろうか。問いかけてみる。無理に決まってるでしょと声が響く。何を取り戻そうとしてるかもわからないくせに。
暴力じゃないか。こんなの暴力でしかない。