あれももう、2年も前になるのか。


 2月にはよく妹から、泣きながら電話がかかってきた。
 苦しい辛いしんどい苦しい苦しいって訴えられても、そっかそっかあ、しんどいねなんて聞くしかなかった。正直どうしようもないし、毎度のことすぎて迷惑だった。妹と話すときは、いつも一方的に苦痛を聞くばかりになっていたから。
 私にだって抜き差しならぬ現実があり、別段楽しいことまみれで悩みなく苦痛なく生きているわけじゃないけれど、他人に言っても解決するわけでなく苦痛を忘れるわけでもないから、黙っているだけだ。姉だから聞いてあげるしかないけれど、自分で処理しろよ、人に言えるうちは大したことねーよって、気をつけて優しい言葉と労わりを投げかけながら、さめざめと泣かれて内心重たいなあなんて思っていた。母と常に激しくぶつかり続けて、両者からの憎悪というか、同族嫌悪のような愚痴のゲロ袋になり続けるのがもう、たまらなかった。
 もう1年くらい妹はそんな感じだった。病院に行っても薬を飲んでも、ますますどっぷりずぶずぶ行くばかりで、正直私は妹はうつ病なのか、ボーダーのかまってちゃんなのか分からなかった。本当のことなんて、本人が居ない今はどうだっていいことだけれど。
 春あたり東京に戻って、姉妹シェアしよっかなんて話も、本人がそんな感じなので自然と私の方から身を引いて、京都に残ることにした。妹を抱え込んで毎日を過ごすのは絶対に嫌だった。
 3月末か4月に会ったときには、妹はもう何も言わなかった。ぽつぽつしんどいもうやだ、みたいなことを呟くくらいで、しおれきっていた。「一緒に住めるって、楽しみにしてたのにさあ」って、諦めたみたいに笑って言われただけ。そして会う約束の1週間前に、時間やなんやの確認メールが来て、やり取りをしたそのすぐ後に死んだらしかった。
 妹の友人たちの数人から、もにちゃんと住むんだ-、なんて半年くらい前から嬉しそうに話してたって聞いた。さすが血を分けた妹だけあって、妹は友人たちの前では何も言わず、お茶らけて過ごしていたらしかった。多分私と妹は、メンタリティのどこかはそっくりだったと思う。ただ全く違っていたのは、私は人に放っておかれる時間が無いと生活ができず、妹は極度の寂しがり屋ってことくらい。
 たしかに、私が東京に戻って同居していたら自殺はしなかっただろう。独りで部屋で黙って病んで煮詰まってってことは、最低限なかっただろうと思う。でも、その最低限を背負うのは無理だった。本当に無理だったんだ。
 両親に会うのが辛い。息を潜めるみたいに静かに寄り添って、妹の元に行くまでの時間を過ごしている姿を見るのが辛い。私は罪悪を背負って、顔に出さず誰にも言わずいつまで耐えていかなければいけないのか。
 勝手に死んだ人間のことなんて知ったことではない。そう思わなければやっていけない。ていうか立っていられない。私が妹を殺したんだろうか。そうではないことは知っている。けれど。私が妹を疎んじていたように、私は妹に憎まれていたのではないか。そう思う時、何もかもの気力が根こそぎ奪われていく。
 

ちょっとブログが意図していなかった妙な重たいものになってしまったから、妹関連だけ別にひっそり作って、移植しようかなあと思いながら面倒くさくてもなか。
というか、本当の王様の耳はロバの耳をつくって非公開で自慰行為すればいいのかなあ。同じような経験をして、ふんふん他人はこんな感じなのか―って参考にしたい人とかがみてたりするんでしょうか。こんなウェッティなオナーヌ公開してるのが恥ずかしくなってきた