あまり早い段階で感情に蓋をしないほうがいいよ。悲しむ時間は必要だよ。

 たぶん身近に同じような境遇で似たよう状態にいる人がいたら、私はこんな風に言うだろうなと考えている。といいつつ、私の場合は内面の状況を他人に気取られない自信はあるんだけれど。そしてまあ、諸々冷静に鑑みた結果、もし他人であったら、上記のようなことが必要だろうなと思ったそれだけのことだ。別に蓋を閉めようとしているんじゃない。閉まっただけだ。悲しむのをやめようと思ったんじゃない。悲しくなくなってきただけだ。仕方がないではないか。もういなくなった人なのだ。存在を実証するものが記憶だけなのだから。

 ここ数年ずっと妹と母親の間に入って、両者の言い分を適当な相槌でふんふん聞いてきた。双方が落ち着きゃいいやと思って、どっちの味方にもなりどっちの味方にもならずにきた。もう知ったことではない。残った各々がそれぞれの悲劇のストーリーを拵えて自分を慰めたらいいだけの話。
 優しい言葉が飛び交った10日間だった。○○ちゃんが悲しむようなことはやめようね、○○ちゃんが望んでいたことをしてあげようね、○○ちゃんが見守っていてくれるからね。だから知ったことではないというのだ。せっかくそう言ってる相手への配慮から、静かに微笑んで、そうだねそうですねと答える。なんという優しい茶番なのだろう。色々なものにうんざりする。勝手にしてほしい。

 同じ東京に暮らしていながら、年に数回食事する程度だった他の兄弟の後悔やら何やらを軽減しようと、どれだけ二人の話をよくしていたかを5割り増しで話した。嘘が必要な時はある。ばれない嘘なら嘘ではないだろう。なんていう茶番なんだろう。こんな時だけの家族ごっこがとても滑稽だ。

 とても寂しい。でも妹がいたときだって私はなんとなくいつも誰といても寂しかったではないか。そのうち慣れる。