昨日は夕方頃に帰ってきて、玄関先でプチ骨壷を出して家の中を見せて回った。一軒家に引っ越した我が家に来たがっていたので、アトリエと二階部分の住居スペース、このソファーベットが来客用。なかなか広くなったでしょう。見せたかった。

それでそのあと、ひとまず本棚の一角に妹の仮住まいをセットしてあげた。弟が選んだ一番かわいい写真を置いて、ぼんやりしていたらあっという間に時間がたち、そのままソファーで寝てしまった。写真は大好きだった犬と実家の床に寝転がってこっちを見ている、なんてことない日常のもの。父が撮る写真の妹は、大抵いつもいい顔で笑っている。


本当は東京に戻ってしまおうかと考えはしたのだ。でもでも面倒だったそれだけのことだった。京都がうっすら私のフィールドになっていたから、わざわざ離れて東京に行くのはいまいち決心がつかなかったそれだけ。京都で一軒家を借りたよーと伝えたら妹はさびしがった。一緒に住むのを楽しみにしていたらしかった。知ってたら私は何が何でも戻っただろうか。そんなことわからないし今更のことだ。ただ後悔ばかりがつのる。ごめんね。さびしかったね。


日常に帰って、昨夜と午前中は何かしながらでも勝手に眼から水分が出てきたが、放置しているうちに止まった。現実味がぐんぐん遠ざかる。この一週間はなんだか全部がふわふわと夢だったような気がする。京都と東京に離れてもいたし、私の日常にもともと妹が常にいたわけではなかった。その延長に戻っただけだ。私はこの先何週間何ヶ月かしたら、妹など元々いなかったように思いこんで暮らしているのではないか。


礼拝堂で初めて棺を開けてみた妹の顔や、泣き崩れて車いすでしか移動できなくなった母の姿や、初めて見た父や兄や弟の泣き顔や、何度もキスしてあげた時の妹の冷たいおでこやほっぺの感触や、妹を赤ん坊のころから知っている神父が葬儀ミサで長々と語りかけてくれたけれどすでに内容が思い出せないことや、焼却口に飲み込まれていった棺やそのドアが閉まったときの風景や、ごみみたいな骨になって出てきたときの眺めや、骨を拾う台に移し替えられるときの無造作な扱いや、そのあと棺の乗っていた台に残った骨のかけらが機械的な動作でさっさと掃き捨てられていた様子や、弟と箸でつまんだ丸い形の骨や、簡単に抱えられる箱サイズに収まった時の何とも言えない遣る瀬無さやなんやかや。


こうして我が家に戻って生活の中に身を置いていると、常からふんだんにみている映画の一つであったような気がしてくる。妹が死ぬはずなんてないのだ。実感がぐんぐん遠ざかっていく。
そもそも、死んだら即効天国に行ってそこでお祭り騒ぎをしているという宗旨のカトリックには、初七日も四十九日も法事もないので、故人を偲ぶのは個々人それぞれの尺度でオッケーというゆるい適当さがあるがゆえに、死にました、死にました、死にましたと定期的に確認する儀式がないのだ。カトリックとはいえ、私たち兄弟は基本的にこれといった信仰心もなく、私なんかは神は人間の創造物だというくらいのスタンスだったんだけれど、しかしなぜゆえ人間が神という存在を欲して創造しなければいられなかったのかを、強く思った。神父の説教の内容は思い出せないけれど、それがあの会場の多くのほんの僅かでも慰めになったことだけはわかった。特に母にとっては。無神論ニヒリズムだけでは乗り越えられないことはある。

フロイトだか何だか忘れたけれど、人間には喪の仕事が必要なのだと誰かがといてなかったっけ。1か月だったか3カ月だったか、しっかりと悲しむ仕事をせねばならないんじゃなかったかと思うけど忘れた。それにのっとって鑑みれば、私の脳みそが勝手にこうして現実を締め出していることはよくないんだろうか。この一週間が全部嘘だと本気で信じこんで何が悪いのだろうか。後々の私の脳みそによくない展開になるんだろうか。でもきっとこの一週間については、私はきっとこの先ずっとつぶさに覚え続けているか、ほとんど思い出せないかのどっちかになるのではないかと思う。後者であった時のために、可能な範囲で雑記として並べておこうと思う。


夜になれば、でかい段ボールが何箱か届く。
ほとんどモノクロそれも黒ばかりで、色はさし色程度の私にとって、妹の服はとても色彩豊かなものが多い。その中でもまだ着れそうなものを送ったはずだけれど、クローゼットにスペースがないからどうしようか。そして私以上に靴好きだったけれど、いまいち傾向が違う。これを機会に趣向の違う装いをしてみるのもいいのかもしれないんだけれど、そもそも妹の靴は私には大きくて、ハイヒールなんかは相当中敷きを仕込まなければ履けないなあなんてぼんやり考えているうちに、何もしないのに夕方になっていた。そうだった。私は今職探し中なんだった。