「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」展へ行く

mxoxnxixcxa2007-03-08

 最近の私の生活において、これといって特筆すべき出来事はあまりないんだけれども、友人が招待券を持っていたのもあって、ちょっと前に兵庫県立美術館へ。森美術館を逃していた「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」展へ行った。
 東京では黒川紀章が妙なことになっているそうですが、安藤忠雄建築のこの美術館は2度目。神戸っ子の友人が居なければ、京都くんだりから出向いてゆくのは億劫に感じてしまいそうなんだけれど、しかし神戸は流石におっされなレストランが溢れていて、三宮にて友人お勧めのエスニックでランチを取ってから移動。展示は「はつゆめ」をのぞけば9点で、六本木のより7点ほど、何ていうか大幅に少なかったみたい。しかしビル・ヴィオラ、本当に良かった。
 ビル・ヴィオラは、ビデオアートを用いたインスタレーションの米人作家で、多くのメタファーを用いた映像とその演出は、見る側に全権をゆだねる完結した世界がある。私は最新鋭の映像テクノロジーといわれても、その手のことには全く明るくなくて、しかして所謂専門家にしか分からないものに終わらないのは、この人のコンセプトの太さだと思う。
 この人の作品の特徴をなしているのは、人間という存在やその身を置く世界を極限まで見据えたい、という自問の痕跡を考え抜いた手法で作品に投影していることだと思う。映画でもそうだけど、特に強調したい動作やシーンにスローモーションを用いることは多いと思うんだけれど、映像の全編をスロー再生して見せることによって、表情の変化は感情を分解し、動作の一つ一つは、そこに居る=存在しているということを強く理由付けてみせつけてくる。ように思った。
 以前ワイルドの戯曲「サロメ」を、S.バーコフという英人が演出したのを見せてもらったことがある。時代設定を20世紀前半のサロンに置き換え、登場人物は全て白塗り・動作はスローモーションという不思議なサロメは、スローで演じることによって余計な要素がそぎ落とされて、その分細かな感情の機微が強調されていたなぁとか、私はそんなことを思い出したんだった。
 今回の展示では「驚く者の五重奏」が、そういう点ではすごく印象深かった。横長の画面に、5人の男女が極端なスローモーションの中で、各々の方向を見つめて並んでいる。光と影を強調した、ルネサンスの絵画をモデルにしたという画面構成は、意識して見なければ動いていることにさえ気づかないくらいなんだけれど、眺めているうちに登場人物たちは恐怖や悲しみに襲われ、時間の経過と共に痛みは和らぎ、癒されていく。その経過を目撃していると、何だかものすごく静かで大きな感動を覚えた。
 存在と時間に加えて、ビル・ヴィオラのもうひとつの大きな柱は、死と再生なわけで、「クロッシング」はもう、いつまでも繰り返し見ていたいと思うくらいに貧乳の胸を打たれ。轟音と、全てを焼き尽くす炎と、全てを洗い流す圧倒的な水。この2つは旧約聖書の重要な浄化のメタファーだと思うけども、とどのつまりはどの宗教においても一定の共通認識としてあるわけで、低速再生の中、人物がゆっくりとこちらに向かって歩いてきて、炎(裏側では水)に包まれながらゆっくりと腕を広げ、炎(水)が去ると共に姿を消す大画面を眺めながら、私なんかはもう、涙が出るかというくらいの許しを与えられたような気がした。
 もなかを放っておき過ぎだわと思いながら、こうやって読みにくそうな乱文をだらだら打って頭を整理するんですけども、昨今の現代アートバブルにおいて、正直私は先端アートよりは、言葉は嫌いだけども純粋芸術の方がちょっぴり好きで、デジタルよりはアナログが好きで、ポップアートよりはクラシックが好きな固い古い人。ですが、戦後アートにとって何よりも大事なコンセプトの重要性について、すごく考え込んだんだった。結局、単なる一人よがりに終わらない作品っていうのは、いかに頭を使ってコンセプトを立てるか、コンセプトをどこまで突き詰めるか、考え抜いた柱があれば、その作品は絶対に個人的な主題を超えた共感性や説得力を持つんだなって、そんなことを考えたビル・ヴィオラ展だった。
「はつゆめ」は、イメージの連鎖。これ以上長くなるのもなんなので、感想は、興味深かったと。でも、私はさほど良いとは思わなかった。日本人よりも外国人が見たら、また違うんだろうけども。
 神戸っ子に限らず、関西人はこぞって行ったらいいと思うよ。兎にも角にも映像作品なので、私はペースの合う友人だったから良かったんだけども、余程感覚の似た人とでない限りは、独りで行った方が気楽かもしれませんよと言い終えて、長々読んでくださった方はありがとうございました。