卒業制作展の2月

 東京でも、藝大卒展やら5美大展やらが終わったと思うのですが、古都も京都5芸大なんて名称もあるくらいなわけで、2月の京都市美術館は卒展てんこ盛り。いくつか見逃したのもあったけれど、楽しいですな卒展は。
 で、本日で終了した某大が、私が見た中ではわりと良かったなという印象。京都市芸が関西においてレベルでは一番高いわけで、じゃあ一番入りにくいところが一番良いかといえば、2,3年生のも交えて展示しているという中途半端なことをしているせいもあってか、見終わって、ハァ?な作品ばかりが残ってしまい、現段階の集大成を発表するんである!という意気込みに溢れたものにだけにしぼってよぅ。と思ったり。一方、最近まで短大だったという某大は、短大だったという名残なのか、いかんせん割りと入りやすいという学校の特色なのか、私と同行者2人、軽く腹が立つような作品の並ぶ学校もあったり。面白いなあ卒展。各学校のカラーを見比べた様な気分です。なんにしても2月はすごく楽しかったよ。
 普段あまり美術に興味のない人こそ行って欲しいのですが、まず卒展のいいところは、素人の作品をタダで大量に見ることができるということ。よほどギャラリーめぐりや公募展鑑賞が好きでもない限り、名もない人間の手がけたものを見る機会はあまりないだろうし、美術教科書に出てくるような有名作家の展覧会なら行くよという人なら尚の事、有名な絵画を有名たらしめている何かについて、思いをはせることが出来ると思うの。
 ずらっと並ぶ各ジャンルの作品を眺めて回ると、本当に色々な思いが溢れていて、なんだか私は「ああ、頑張ろう」と思えるんである。コンセプトがつめ切れてないもの、考えすぎておかしな方向に行ってしまったもの、技術が稚拙なもの、技術だけに頼ってしまったもの、こじんまりとまとめ過ぎてしまったもの、エキセントリックにやろうと思って、かえってありがちなものに納まっているもの。誰かのフォロワーだったり、どこかで見たようなものだったり。4年間の総まとめで出しきれた感のあるもの、4年やって、これ?というもの。じつに様々。
 ずらっと並んだ中には必ずいくつか、「あ。」と思うものがある。「あ。」と思わないものにもどれにも、若さと自身の器が反映されている気がして、楽しむと共にひどく残酷な場に居るような気もしてくるから不思議。卒業後、進学する人、希望ジャンルのクリエーターになる人、作家活動を目指す人、全く関係ない業種に就職する人、留学する人、フリーターになる人、地方に帰る人、誰もが卒業制作を最後に各々の方向に向かって、散り散りになっていく。その現場に立ち会っているような気がして、あれはこうだね、それはああだねと同行者とへらへら言い合いながらも、どこかとてもおごそかな気持ちになる。これを最後にもう制作をしない人、描き・つくり続ける人。続ける人だって、5年後、10年後も続けていられるだろうか。
 尊敬する先生が言っていた。「汝の足元を深く掘れ。そこに泉あり」という鶴見和子の言葉だった。まず、自分の足元はどこなのかを見つけることが、なんていうか、こう、とても困難だ。私はどこに立っているんだろう。ここは本当に私の立ち居ちなんだろうか。なんか、ほら、本当は他にあるんじゃねーの?と思春期のようなことを今でも考えてしまう。
 先生はこんなことも言っていた。「技を誇示するものではいけない。技を技として出してきてはいけない。最後に技は消える」って。私はその言葉の意味を理解はしても、分からなかった。何かを自分の中から引っ張り出してきて形を与えることは、ひどくしんどい。けれど4年間そればかり考えて過ごす期間は、絶対に無駄にはならない、貴重な時間なのだと思う。