大阪は都会なわけで

mxoxnxixcxa2006-12-19

 所用でここ数日、大阪は梅田まで、よちよち京都から通って、へろへろになって終電手前くらいでやっとやっと帰り着く日々を送っているわけですけども、遠いなぁ。大阪、遠いなぁ遠いなぁ。もう、めっちゃ疲れたわぁ(超疲れたよ)。けれども明日も明後日も梅田に行くんやげども、大阪のキタ文化圏のヘソを行き交う老若男女をじっくりと眺める機会に恵まれたともいえるわけなんやで。で。
 ウチは非常に体力的にも疲れているもんやから、なんだか少々の孤独を覚えてみたりもするんやでと、使いこなせぬ大阪弁をキーボードに叩き付けながら、非常に自らを異物に感じてみたりもします。例えば東文化と西文化の違いを肌で感じていて、それが疲れた身体にしみるのかもしれません。
 例えばひとつ。会話のテンポが明らかに違うので、友人以外の大阪人と大阪で接するとき、己の頭の回転の鈍さを思い知らされるんである。「ボケてみせる賢さ」に、「突っ込みの優しさ」は、人間関係を円滑にする智慧なのだろうな、それっていいなぁと思いつつも、私なんかは、関西人が冷たいと言う「踏み込まない優しさ」の方に慣れきっていて、「そっか」で会話を柔らかあく着地させることが身にしみこんでしまっている自分自身が、少しけっこうたいへんすごくもどかしく感じる。ひとつのことを面白おかしく言い表せる会話の機転を、嫌味でなく本当にすごいなぁと思いながらも、次々飛び出す面白い言い回しにどう返して良いのか分からなくて、適当な相槌と愛想笑いで流してしまう。申し訳なくて、どうしたらいいのだ。
 例えばもうひとつ。色の好みというか、服装の系統というか、全国的にも有名なことですが大阪はカラフル。若い人も、そうでない人も。大阪人の方はどうか怒らないで欲しいのですが、ある種の過剰さが好まれるのだなということ。その過剰さの中に身を置いてみると、ただ単に寂しくなる。それが良くないというわけでも、おかしいというのでもなくてただ単に、ああここは文化が違うのだと感じる。京都にいれば、まあ大して人も多くはないし、お洒落な町でもないしであまり気づかないんだけれども、着物に置き換えれば、江戸好みでは渋い・粋とされる紬の着こなしは、関西では辛気臭いものとなり、関西で好まれる華やいだ鮮やかな着物が、東では派手で落ち着かないとされるっていう、どっちがどうというのではない文化差というか。
 けれど、関西で関西に対する違和感を口にするのはご法度。だってここは関西だから。誰だって自分の親しんだ文化を愛してる。私だってそう。関西は私にとって、あらゆる面で少しずつ複雑で、それが積もり積もって自分が大きな異物になってくる。大阪、神戸、京都の決して仲の良くはない3都市で成り立つ関西。異物である私は、朱に交わって赤くなろうと努力をするのですが、少しく疲労を感じるのは、体力的な疲れの所為。に決まってる。と思うの。こんなことしてないで早く寝ちゃえば翌朝にはすっきりだろう?と脳内小人が。どうせおまえは何処にいたってそこにいちゃいけない気がするとか言い出すんだろう?青くせえな