秀山祭九月大歌舞伎@籠釣瓶

吉原炎上

 月も変わって数日。今更ユーなに言ってんの?という感じですが、先月久方ぶりに歌舞伎座へなにが何でも行きたかったのは、籠釣瓶がどうしても観たかったから。
素朴でお人よしで気のいい裕福者でもキモメンは、イケメンで無職のヒモ男に勝てない。絶世の美しい花魁に一目ぼれして、高嶺の花に手を伸ばし、憧れの蝶々を我が物にしたと思っても、優しさだけでは心からの愛も報われぬキモメンの悲しさ。心根の美しさは、顔立ちの美しさの前では霞んで意味を持たないのだ。人って、人の世ってそんなもの。
 なにかこう書くと、なんだエレファントマンか?みたいな感じがするんだけれども、これは人間の醜さではなくて、人間の悲しさを描いた話だったと思う。吉右衛門の次郎左衛門は、気のいい田舎者が吉原の大華・八ツ橋に人目ぼれし、恋焦がれて垢抜けして八ツ橋の良きお客となり、身請けまで話が進み、大勢の前でプライドを傷つけられ、そこから最後のくだりに至るまでの心情が手に取るように分かった。「しつこいなぁ。だからアンタの顔がキモくてキモくてしょうがないのを、いっつも我慢してたってわけ。その顔を見てると体調悪くなる。ああ調子わるぅ」とまで言われる純朴なキモメン。笑い者にされることの痛ましさや、愛する人に冷たく切り捨てられる哀れさはもう、見ていられない位だった。プライドを何とか保たなければという反面、泣き崩れそうなのをこらえて、「花魁、そりゃあんまり袖なかろうぜ…」と振り絞るキモメンは、見ていて本当に胸が痛かった。
 この話は暗いんだけれども、単なる身の程知らずの恋が招いた悲しい結末、というだけに終わらないのは、花魁というひとつの女の生き方というか、遊女という存在のやるせなさも丁寧に掬い取っているからだと思う。私のような現代乙女は、ヒモ男がエラそうに!と思っちゃったりするけれども、マブでも持たなきゃ遣り切れぬものもあるんだろう。
 八ツ橋は、見染めの笑み一つで、素朴で実直な男を破滅に向かわせる。男の人生を狂わせ、最後には自らの命も奪われるといった存在であるにもかかわらず、カルメンサロメのようなファム・ファタルの代名詞とは異質かなぁと思うのは、基本的に花魁という職業に自由は無く、絢爛豪華なこしらえに身を包んでちやほやされていても、自分の人生も選べない孤独な存在だからだ。奔放に我が道を行くわけにもいかないわけで。
 縁切りの最後、戸を閉めて出て行く八ツ橋が、打ちひしがれてうずくまる次郎左衛門を振り返って、そっと頭を下げる。「わちきはつくづくいやになりんした…」 この台詞がもう、ずどん…ときた。こんなに良い人を傷つけてしまって申し訳ない。という侘びの気持ちに加えて、花魁という自身の運命にさえも絶望しているようで、観ていて悲しくてやりきれなかった。この場面は私のファン心理を除外して考えても、福助は素晴らしかったと思う。とひよっこながらにほざいてみたいの。というか、私は「袖なかろうぜ」から「いやになりんした」のくだりで、あんまりやりきれないので泣きそうになるのを堪えたんだった。次郎左衛門にとってこの話は報われぬ人生の不条理が、八ツ橋には自由の無い悲しさと因果応報が。
 最後に籠釣瓶という妖刀で斬られ、ふんわりと倒れる八ツ橋。そのえびぞりの美しさったら。周囲の中年女性は口々に「ふわぁ…」やら「キレイねー」やらと呟き、私も「なはぁ…」と溜息を。歌舞伎は素敵。歌舞伎はエキサイティング。歌舞伎はスリリング。歌舞伎はエキセントリック。歌舞伎は面白い。歌舞伎は美しい。歌舞伎はかっこいい。無駄なく完成された様式美と、単なる様式美だけに留まらない、生身の人間の姿があるように思うの。歌舞伎が生まれて400年。何百年たっても人間は変わらず愚かで、それでも美しい。
 籠釣瓶はそのうちNHK教育あたりで放送されるような気もするのですが、どうなんでしょう。永久保存版で保存するのでお願いします半国営放送局様。でもでも、テレビで歌舞伎を見るたびに思うのは、生で鑑賞する面白さの3分の1も味わえないなってこと。今月は後半に、松竹座へ染五郎愛之助のなにやらを見に行きます。内容はボーイズラブだそうですな。禁色といったところでしょうか。内容を全く知らぬまま、そのうち行って来ます。