ノンケとバイとレズビアンについて一寸だけ考える

mxoxnxixcxa2006-09-05

 明日から妹が京都へやってくるので、部屋の整理をしています。ひとまずは清潔に暮らしているので、掃除なんかは特にしなくてもいいんだけれど、私が部屋にいない間に見られたくないものをあれこれそれと詰め込んで隠ぺい工作。何日いるのか知らないけれど、どうせ1,2泊だと思う。
 ハタチという蝶よ花よの人生でもっとも無責任に輝かしい時期に身を置く大学生の彼女は、大雑把なくせに女ならではなのか妙に鋭いところがあって、かつてやや真剣な表情で「ねえ、もにちゃん。もにちゃんて女が好き?」と。うひゃあと思いながらも、ここは狼狽したり強く否定したりすればそれこそ墓穴を掘ると思ったので、「えーそうかなぁ」とゆるゆるとこたえてやりました。「違うと思うけどぉ、そりゃブスより可愛い子の方がいいとは思うけどね」と。「そうかぁ。ま、もにちゃんは男みたいでもないしね」とノンケならではの理屈で安心したような顔をしたので、「彼氏がいたのも知ってるじゃん」と締めくくってやりました。うわあこえー。
モンスター 通常版 [DVD] 明かしてやれよ妹じゃんと言われても、彼女はレズフォビアなので、そこは譲れないの。「もにちゃん『モンスター』観た?シャーリーズ・セロンクリスティーナ・リッチがキスしてた。もうありえない気持ち悪い」と彼女が言ったって、それが差別ではないのは分かっているし、生理的レベルの嫌悪感は致し方ないと思う。おじいさんとおばあさんが手を繋いで歩いているのを見かけると、なんだかほのぼのとして嬉しくなるけれど、例えば老人ホームで、老人同士が裸で抱き合って眠ることも珍しくないと聞けば、想像して「うっ…」と思ってしまうのと同じようなもの。仕様がないのだ。
 だからノンケの女子が、「レズは絶対いやだけど、ホモなら別にいい」と言うのも、ノンケ男子が「レズはなんか綺麗だしいいと思うけど、ホモはありえねえ」と言うのも、自分とは遠いものだと思えば受け入れられるけれど、同性の人間が自分とは違う性的嗜好を持っているのに対してちょっと引いてしまっても、悪意ある攻撃とは全く別もの。
 バイセクシュアルがレズビアンから非難される決まり文句、「いつでもノンケに戻れるという逃げがあるんでしょ」と言われるこれ。そんなことないけどなぁという反面、どこかで否定できない部分もあるのかも。coming out from closet は失うものがでかすぎる。まして私は半分だし、奇麗事じゃなくて、誰とでもつつがなく楽しく生活していかなきゃいけないんだもの。クローゼットを嘘だと思わないのは、後ろめたいとも思っていないから。 昔の同性愛はどうだと勉強しても、何をどう運動してパレードで頑張ってもマイノリティはマイノリティだし、区別する側のことを、区別される側が真剣に考えてあげても意味があるのか疑問。考えてくれっていうほど、ヘテロは非へテロのことなんて考えてあげる必要がないのだと思う。だからマジョリティなのだ。
 どのバイもそうだとは言わないけれど、私はよくいう「好きになった人がたまたま同性だった」みたいな理屈じゃなくて明確に、男子ならこういうタイプ、女子ならこういうタイプが好きというのがあって、だから芯から両性愛者なんだなと思う。ただ、それをバイは「男女同時進行するアバズレ」だとか、「どっちが好きなのかも良く分かっていない性的な未熟者」とレズビアンに言われると、ああこの人たちとは異質なんだなと思う。細かいことはどうでもいいじゃんという側にしてみれば、ヘテロ社会に対する憎悪に近い反発心の強さも、同調しきれない部分がある。それが高じて妙な帰属意識が発生したりして。けれど、自分たちが完全にマイノリティであり、社会的に無視されているというのを肌に感じて生きてきた世代の人たちがそう思ってヘテロ社会を眺めるのも、傷ついた分だけに当然の成り行きなのかもしれない。そんなことどうでもいいじゃないと思うのは、あんたがバイだからでしょといわれれば、そうなのかも知れませんが、性的嗜好アイデンティティは別物だと思う。むしろ混同すべきじゃない。
バイと付き合っても、どうせいつか男がいいって言い出すんでしょ」とか、「常に嫉妬してなきゃいけないから疲れる」だとか、「バイと付き合ったから捨てられた」だとか、そういう生粋の同性愛者の理屈はずるい。恋愛はどっちもどっち。自分が相手を信用し切れなかっただけのことだし、信用し合う関係に持っていかれなかったという話。バイと付き合ったから傷ついたわけじゃない。ただ単に恋が終わったの。安易に一括りにして責められるいわれはないわ。
 何が言いたかったのか分からなくなってきたところで、これからマイPCからもなかに繋がる手がかりを隠蔽しようと思います。妹が帰るまで。