「鏡の中の鏡」ミヒャエル・エンデ

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー) 私とは誰なのか。世界は何処にあるのか。私の抱くミヒャエル・エンデのイメージはこの2つで、「モモ」も「はてしない物語」も、子供の頃から何度も読み返してきた本。いずれも感想なんて書ききれないくらいに大好き。好きな作家は?ときかれれば真っ先に思い浮かぶし、無人島に3冊持っていくなら?と空しい質問を受けたら、1つはエンデを入れたい。
「鏡の中の鏡」は、頭も心も今より柔らかい頃に読んで、もう頭の中に後頭部から手を差し込まれたというか、世界がばらばら剥がれていったかのような心持に。短い物語が30編、イメージの断片のような話が唐突に始まり、不意に断ち切られるように終わって、次が始まる。互いの話は相関性がないようでいて、ひとつ前の話を微妙にうつしとって展開され、そうして次に渡されていく。並んだ寓話は前の寓話を映し、後ろの寓話に映される。鏡の中の鏡みたいに。
鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫) 鏡は前に立つものそのままを映し出すわけじゃない。鏡に映った世界は左右が反転し、覗き込めば見慣れた部屋もどこか非日常的な空間に見えたりもする。鏡に映る自分の顔も本物とは左右が違うことを考えれば、鏡に映ったものとオリジナルとの間には決定的な齟齬がある。離人感のある人なんかは、「映っているからってなんなのだ。これが自分だっていう証拠があるか?目の前全てが作り物に見えるのだ」という気分に陥るそうだけれど、確かに自分を確かめる方法は鏡以外にはないわけで、鏡が信用できないとなると、己の存在に疑わしさが沸くのも、そうなのかなと思う。
 この本の冒頭の話、「許して、ぼくはこれより大きな声ではしゃべれない」というホルの語りは、「僕の名前はホル」と何度も念を押すように繰り返す。自分とは何か、存在とは何か、記憶とは何か、世界とは何なのか。夢の断片のような30編の寓話は、それぞれが独立しながら、その前後と互いを映しあっている。「冬の夕暮れ、雪におおわれたはてしない平原の」で始まる終章の最後で、始まりに繋がる。

「どなたが不憫なのでございますか、殿下?」と一番目がたずねる。
「だれでもないものが、です」と彼女が答える。「私は、この扉の向こうにいる弟のことを考えていた。かわいそうな弟ホルのことを」
 

 初めて読んだとき、くらぁときた。メビウスの輪じゃないか。青い女子一匹、身震いして感銘を受けたのだった。
 終わりがないまま延々と続く鏡の中の鏡。何年かに一度は読みたくなり、年齢とともに感じ方や受け取り方が変わるような気がするのは、この本自体が非常に曖昧なものだからだと思う。曖昧な迷宮だからこそいくら覗き込んでも飽きないのだ。だって世の中すべては曖昧だらけだもの。
エンデ全集〈13〉自由の牢獄 15歳の20歳の2●歳の、年とともに変わっていく何かを、忘れた頃にこの本を読んで確認するわけでなく、何かを繋ぎ止めたいわけでなく、ただ単に読みたくなるので、生涯の早いうちにそんな本に出会えて良かったです。「自由の牢獄」もこれと似たタイプでとても面白いです。