新約聖書もなかなかなぁ

 例えば、『放蕩息子のたとえ』という話。 ここ この話がもうどうしてもどうしても受け入れられないのであって、いやこれだって、じゃあおまえはなんだ、潔癖な人間か?お前が間違いを起こしたときにも、こうやって向かえ入れてもらえるということなのだ、この話の主人公は父親だ。世の中から落ちこぼれた人間さえも優しく受け入れるという話だ。それが寛容の精神だ神の愛なのだ赦しとはそういうことですよっていう。
 己の傲慢さを捨てよと言いたいのは分かる。許せないものを抱えて日々歩くよりも、さっさと手放してしまったほうがずっと歩きやすい。赦しってひいてはいずれ自分もまた赦されるということ。心を広く、己は小さく。その重要性やら方法やらを教えているのが新約聖書なんだろうけども。
 しかしなんだ、これは単純なる不公平じゃないのか。兄の気持ちは無視か?世のキリスト教徒の長男長女はこれをすんなり聞けるのか?私はまだ無理。「心が閉じた傲慢な人間」だから。こうやってわざわざだ長々長々長々愚痴っている時点で、私は結局縛られているのに違いない。
 原始仏教の方がむしろよほど心に染みるのだ。世は無常。西洋思想は仏教を厭世的で後ろ向きだと切り捨てるけれど、まずこういう西洋至上主義からしてイヤ。キリスト教至上主義ってイヤ。排他的でイヤ。他宗教を尊重しないからイヤ。自分が一番正しいと信じているからイヤ。布教って何にそれ。ザビエルがどうしたのだ。キリスト教はそんなに世界中に押し付けるくらいにすんばらしいか?アメリカ人は未だに半分が、進化論を本気で否定しているんですよ。ばっかじゃないの。母がそれを鼻で笑っているのも知ってる。宗教だって時代とともに変容していく柔軟さが必要だって、殆どの信者が思っているのだって知ってる。
 私の眼鏡はささやかな憎悪で曇っているので正しい判断を出来ないで居るんだろうけれど、聖書を素直に解釈できぬのは私の問題なのかもしれないけれど、しかしキリスト教の発想には反吐が出るのよ。ぺっ。