行ってみたんだ

mxoxnxixcxa2012-12-23

 少し前に、ちょっとした成り行きで知り合った子とミサに出てみた。
 22歳くらいの遊び盛りを謳歌している男で、同業界で働いているってこと以外には特に共通点もないのだけれど、そのくせ毎週ミサには行ってるわーなど言っていたので、試しにクリスマス以外のミサにも行ってみようかなあと思い立ち、同行させてもらったんだった。
 私は単なるボーン・クリスチャンなので、教会に興味なんてなくて当然と思ってきたところ、同じ立場でも大人になってもなおしっかりと教会通いをしている人もいるのかと、ちょっと新鮮で興味を持ったんだった。だって日本で普通に暮らしていたら、クリスチャンや、ましてボーン・クリスチャンで尚且つ今でもきちんと信者などいう立場の人間に会うことなんて、なかなかないんだもん。
 私自身は、存在しないものを盲信して依存するなんて思考停止もいいとこでしょ、なんて思春期手前くらいで思って以降、他人が信じようが尊重はするけれど個人的には興味のないものだった。世の中には確かに悪い宗教もある。孤独や行き場をなくした人間の思考を奪って依存を植え付けることで、行動を制限したり支配したり、大きな金銭が動いたりもする。あらゆる宗教が一定のレベルでそんな側面も持ち得るから、余計に縁遠くなった。それはまあいいとして。
 それで妹が死んで以来、私と違って多少は教会に近しいところに身を置いてきた人間も救えないなら、宗教とは肝心な時に全くなんの助けにもならない無力なものではないかと、多少軽蔑や憎しみに近い感覚を持ってもいたのだと思う。こんな不肖な私に救いがないなら仕方がない。けれど妹は違ったではないか。それも救えずにして何のために宗教があるのだろう。ずっとそんな思いがなんとなくあった。

 久しぶりのミサはなんの変哲もなかった。子供の頃に毎週渋々通っていた頃と特に変わらない。教区は違っても風景も進行も同じで、それを特別懐かしいとは思わなかったけれど習慣は不思議なもので、「兄弟の皆さんと平和の挨拶」を交わして、「平和の祈りを唱えましょう」など言われれば、勝手にすらすら口から出てくる。
 長々前置きをして結局私が思ったのは、やっぱりミサは単なる形式に添った儀式に過ぎないし、教会もまたひとつの建物に過ぎないということだった。それだけのことだ。でも覚えておきたいのはそういうことじゃない。
 強く印象に残ったのは、2列前の席に居た人の後ろ姿だった。最終的に正面からもみたけれど、スキンヘッドにいかつい身体でパンチ一つで人を飛ばせそうないでたちの男性がいて、後ろ姿でも背中の揺れで分かるくらいに大きな声で賛美歌を歌って、そして祈っているのがわかった。ここに居ることが彼にとって大きな意味があるのだろうという事は伝わってきた。
 この空間と、彼のいでたちと、その一生懸命な後ろ姿のあれこれのギャップを眺めながら、うまく言えないけれど理屈では理解してきた当たり前なことを初めて理解した。神も救いも、たぶん彼の中にあるんだろう。建物や、儀式の中ではなくて、個人を救うのは個人の内面にあるものだ。人間て自分の中にあるものによって救いを見出したり自分を見限ったりする。当たり前のことを、彼の後ろ姿で何となく実感した。
 彼はミサが終わると祭壇に向かってひざをついて頭を下げて出ていった。ここまでする人は信者の中でも少ない。他にも斜め前にいた中年女性が、ぎこちなく進行表と周囲を眺めながら合わせようとしていた姿や、そのほかにもあれやこれやを見た。行って良かったと思った。私自身の信仰を見直すとかそんなことはないけれど、神様も救いも許しも、求める人の中にある。それはたぶん尊いものと思っていい。そんなことを思った。