Tさんのこと

 共通の趣味を持つ知人が、故郷の熊本へ帰るので次期の申し込みはしないから今日で最後だね、と。Tゆきさんは60代の後半、お洒落な紳士で、明るくて冗談が好きで、クラスのムードメーカーだった。
 ずーっと長くいた関西の土地を離れて家も手離して、故郷の土地に墓を建てて母親と一緒に人生の締めくくりに備えるのだと、いつもみたいに冗談めかして笑いながら言っていた。
 週に一度の授業でしか会わないし、プライベートなことはお互いよく知らないけれど、何だかよくわからない寂しさがこみ上げてくる。笑顔で、「今日で最後だね」とお別れを言われるのは辛い。もう会うこともないTゆきさんのシャツのピンク色を、出来るならずっと覚えておこうと思った。やがて来る死をどこでどうやって迎えるのか、私はそんなことをリアルに考えるには若すぎる。けれどTゆきさんの決心がとても大きなものであったろうことくらいは分かる。
 人間はどうあってもいずれ死んでしまう。ある日、不本意な形で不意に奪われることもある。病に襲われて余生を意識しなければならなくなることも、もうすべて終わらせたい強い願望に折れて、自分から向こう岸へジャンプすることを選ぶこともある。そして運よく、自分が人生を折り返してある程度の仕事を終えたことを知り、いずれ来る死へ向かう自分の人生をデザインするチャンスに恵まれることもある。
 何がこんなに悲しかったのか、まだ頭の整理がで来てないんだけれど、とにかくTゆきさんの笑顔と、よく着ていたピンク色を覚えておきたいと思った。それで、モン・サン・ミシェルのオムレツが不味いという話を聞いたら、Tゆきさんを思い出したいのだ。