葬る

mxoxnxixcxa2008-07-08

 火葬という埋葬法は、とことん残酷で優しいと思う。そこに確かに居た、いつもみてきた肉体をあっという間に灰にして、ほら、だからもうかの人は居なくなったんだよ、死んじゃったんだからね、と分かりやすくビジュアルで見せつけてくれる。
 日本のお葬式に出て、その後の日々日常に埋没しているうちにその人とのお別れの痛みが薄らいできて、お葬式という儀式は残された人の離別の痛みを分散させてくれるための、知恵の文化なのだなとか考える余裕ができてきて、そんなことを静かに考えられるようになった自分を多少残念に思い、時の流れの効力に抗えない己をささやかに悔しいと感じながら、土葬の文化圏では一体どういう感じなのだろうと、ちょっとだけ考える。
 棺の中に横たわっている元なにがしさんであった人は、何かが抜け落ちてすでになにがしさんではない何かに見える。これは本当にあの人であったんだろうか。でもそれと同時に、やっぱりここに納められている人は、私の知っているなにがしさんなのだ。棺に入っているというだけで、本当は今にも目を覚まして、「びっくりした?」とか言ってくれやしないかと期待してしまう。それを打ち砕いてくれなきゃ、あきらめきれない。物体になってしまっている体を灰にして、壷に収納してくれなきゃ、期待してしまう。
 死や死後の肉体に対する捉え方は文化によってさまざまだから、火葬なんて野蛮だ残酷だと感じる文化圏もある。この土の下にはあの人が今も横たわっている、というのは安らぎになるのかもしれないし、はたまた日本国の限られた土地事情もあるのだろうが、大切だった人が単なる冷たい肉隗に過ぎなくなったのだということを、その人をその人たらしめていた形状を丸ごと奪って灰にしてみせつけて終わらせてくれるくらいの残酷な仕打ちをしてくれないと、たぶんずっといつまでも、土の下で眠っている人に期待してしまう。何かのショックや衝撃で、突然心臓が動き出してむくっと起き上がって、のこのこ土から出てきてくれるんじゃないかって、たぶん私はものすごく期待してしまう。
 そんなこんなで、何となく両親様に電話をしてみる。愛していますなんて別に言わないけれど、足元さえもおぼろげなる綱渡り人生を孤独にロンドのステップで歩む一乙女のわたくしは、今この人たちがいきなり他界したらきっと五臓が千切れるような思いをするのだろうと何となくだけ思ったそれだけの話。