ご飯茶碗と出会う@アートフリマ

mxoxnxixcxa2007-03-30

 とても眠いんだけども、寝るわけにいかないのは、明日から誘われて、ちょっとスケッチ小旅行に行くのに準備がまるで出来ていないから。
 月が変わる前になにかと思っても、何もないなと思ったら、ひとつ思い出した。先の週末、京都ではアートフリーマーケットというものが催されていて、友人とよちよち出かけていったんである。というか、ふらふらしていたら出くわしたんだった。手打ちパスタの美味しい店でランチを食べて、腹ごなしに歩いていたというだけなんだけども。
 昨年に五条坂陶器市で購入した、すごくお気に入りのご飯茶碗が、ちょっと前に私のちょっとした不注意で、ペンタブのボードが直撃→斬新な姿の灰皿へ変身という華麗なる転職を遂げて以来、泣くに泣けない悲しい思いを抱え続けていたんだけれども、ひとまずは新しい物を購入した。
 けっこうやきものが好きなので、こういう場で、こつこつ作家活動をしている人のものを買うのは楽しいですな。なんといっても、まず世界に2つとないものをわが部屋へお迎えできるのは嬉しいよね。つーんとすました感じの絵付けものよりは、釉薬のかかり具合で見せる偶発的なものの方が好きで好きで好き。一見似通ったお茶碗を一つ一つ手にとって眺めていると、その中から、「もにか!ほら、あたしよ!」と話しかけてくるカワイイやつがごくまれにいて、そいつを連れ帰って撫で回して眺め、日々の糧を頂くなどすれば、米は仕方なく食べるという私でもほほら、食事が楽しいなぁ。なんて思えるので、やっぱり灰皿になってしまったあの子を眺めていると、悲しくてしょんぼりしてしまう。
 若手作家のブースで出会った新しい子をひとまずお迎えはしたけれども、そいつは萩焼っぽいごつごつした肌にかかった釉薬がごてっとしていて、それはそれで見た目にそぐわず軽くて不細工なとこが可愛いんだけれども。でもでも、灰皿になった子は本当に可愛かったの。薄くて軽くて繊細で、内側に緑釉が大きな雫のように垂れていて、何焼きというよりこの作家の作ったもの、という一点モノ的な幸福な出会いが満ち満ちて、どこにも代わりのいないオンリーワンなこの感じ。私が選んだというかモノが私を選んでくれたというか。今年の陶器市にあの人がまた出店したとしても、同じ子には二度と出会えないのだなぁと思うと、本当に悲しくてしょんぼりしてしまう。
 ということを、梅酒を豊富に取り揃える店で呑んでのんで飲んで食べて語って帰ってきた回転頭で、キーボードを寂しくパチるわけ。覆水は盆に帰らぬのだ。オムレツは卵には戻れない。後悔先に立たずで注意一瞬怪我一生なの。釉薬がね、均等にかからずに底に溜まったり雫になったりして、ガラス質が濡れたように光っているさまは、本当に綺麗で魅力的なの。どうしてこんなに好きなのか、いつから好きなのか分からないけども、ときめきが止まらないよ!おうおう。やっぱりあの子が可愛かった。新しい子は嫌いじゃないけれど、あの子が可愛かった。
 京都の文化情報量の薄さ少なさは、東京に比べればもう比較にならないくらいに寂しいところで、諸々を含めて愛しにくい。けれど、モノを造る人を呼び集める、また受け入れて育む、場を与えるという点では、本当に魅力のある場所だと思う。五条坂陶器市は夏。あの作家にまた会えるかしら。