ファインアートブラックホール

mxoxnxixcxa2006-05-19

 18歳美大1回生の男子とお喋りする機会があったとき、彼は「なんか、何のために描いとんか、わからんくなって…」というブラックホールを呟いた。
 制作分野の学生じゃなくとも、現役であれ浪人であれ合格を目標にして何年か頑張った後に、第一志望だろうとそうじゃなかろうと入学という目標を達成して、徐々に環境に馴染んで余裕が出てきた5月はブラックホールあれ、でもちょっと待てよ。というこいつに肩を叩かれ、振り向きざまにビンタされる。
 19,20のカオスになんか絶対に戻りたくない。よく知りもしないおねいさんに悩みを呟いて、なんとなく、いやそれなりに真剣なんだけれど大して参考にもならぬことを答える私の言葉に、「はい、…はい」と目を見て耳を傾ける男子。すんません。見つめ合って話すのもなんなので、おねいさん目を逸らしちゃいました。この素直さに心から感服した。
 私は何者でもなく、本当にたいした人間じゃないどころか、自身もまた今後についてカオス真っ只中なんですけど、いいんですか。こちらが恐縮するくらいに真っ直ぐなので、心が洗われる思い。かわいいなあ。ほんとかわいいなぁ。18,9の男子ってこんなにかわいいものなの?それくらいの頃、私は人の話を聞けない子だったし、周囲の男子もこんなに素直だったろうか。あ、私がおばちゃんで、明らかに世代違いだからですかそうですか。でも待って!年の差はまだ1ケタだから!
 で、18歳のアイデンティティ・クライシスに触れて初めて、自分が成長なのか鈍磨したのか、とにかく知らぬうちに、どろどろしたカオスの適当なところでの処理というか、自己解決できるようになっていたことに気がつく。「あの時こうすればよかった、ああすればよかったのにと考えて動けない」 「自分が何をしたいのか分からない」 「何が好きなのかも分からない」 「何ゆえ描くのか分からない。何描いていいのか分からない」 こんな禅問答に答えを出せる人間なんかいないんであって、己で答えを出すのよ。悩んでいいのだ人間は強いの。で、ふと振り向いて、嗚呼あの時は悩んでいたなぁなど気付く。そんなもん。私は描く必要が見つけられなくて絵を描かない人間ですけども。
 好きな画家が増えるたびに、自分で描く必要が見つけられなくなっていく。素晴らしい絵を前に脳味噌を鷲掴みにされたりする時、凡人の私なんかは、自分で生み出さずとも他者の生み出したものでカタルシスを得て、充足できてしまう。だから私にとっての何かは、絵ではなかったという話。
「好きなものを描きゃいいんじゃない?描いてて楽しいものを」というのんきなことをぬかしてけつかるおねいさんに、彼は「でもそれは自己満足じゃないですか」と。確かに私的な作品というのは、どんなに技術力があっても大掛かりでも、絵日記や趣味の作品と変わらない。デッサンが手段でしかないのと同じ。悲しかった、寂しい、嬉しい、綺麗だというだけじゃ自己満足でしかなく、悲しさとは何なのか、喜びとは何か、なぜ美しいのかという考察と再構築なしには、他者の感情をも捉えることは出来ないのだ。と尊敬する先生が言っていたよ。
 たら、れば。の相当な曲者には私も一時期しつこく捕まって、たらればのせいで、ああもうダメだお終いなんだと思ったりもした。過去を自分の中で定義し直せるのは、今後の自分だと、その昔ひとが言っていて、目からうろこを落としたことを思い出す。それを肝に銘じることで、ちょっとやそっとの失敗やつまずきでも、持ちこたえられるようになった。
 で、たらればで動けない彼に、その時それを選んでいても、どうせ今頃は違うことで悩んでるに決まってると答えた。これでよかったんだろうか。もっと違う、他の道があったんじゃないのか。そんなもんだよと言った時だけ、彼は柔らかく微笑んだ。かわいいなぁ。悩み尽くせとおねいさんは思いました。
 描くことに悩んでいるうちは描き続けたらいいよね。これじゃないと思ったときに止めればいいのだ。そういう他人の5月病で、色んなことを考えさせられたことがありました。正直なところ、自分でも自分に疑問だらけなのに、彼は私に何を聞きたかったのか。悩んで良いんだ、それでいいという一言を、誰かの口から聞きたかっただけかも知れないなと、そういうことがありました。