所詮イメージの産物

 少女という秘密めいた響き。あまねく少女達はみんな成長なんかやめて秘密の花園に閉じこもって遊んでいればいいよ。無邪気で残酷な顔で大人には分からぬ言葉でお喋りしてくすくす笑っていたらいいよ。少女はフェアリー。失われてしまうからこそ短い少女期は尊くて眩しい。
 そう考えて、ふと立ち止まる。少女崇拝の中の少女なんて、眩しすぎて実態が見えない。生身の少女ってそんなに神々しいかしら。むしろたいていの場合はうざくて、自分を振り返ってもそのようだった。私は別段残酷で装飾過多な空想の世界に生きていたわけでもなく、時に空想はすれども、もっと俗っぽい夢を見ていた。母親が死ぬとか、友人と立場を交換するとか。
 でも、ああもう大きくならなくていいよと思ってしまうのだ。「時間よとまれ。おまえは美しい」 文学ぶって叫ぶも結局死を意味するのなら、最初から死んでいる少女、死なない代わりに生きてもいない少女、死んでいながら生きている少女、生きてるようで死んでる少女はまさに少女の理想の姿じゃないかしら。
 私は無機物のくせに生きているフリをしている永久少女達を心から可愛く思っていて、幻想の少女達は本物の少女なんかよりもずっと正しい少女そのものに思える。むしろ生身の少女の俗っぽさを思えば、少女の概念そのものである少女写真や少女人形は理想の少女のありようといえるかも。聖女のようでありながら娼婦にもなれ、成長もなく女になることもなく好き勝手にそこにいて欲しいんだ。
 そういう冷えた存在を見ていると、自分がもう女になってしまい、年をとるしかなく、ゆくゆくは死ぬしかないことを強く念を押されたような気がしてくらっとくる。このくらっとくる感じが好きなので、私にとって人形愛はこの眩暈みたいな感じ。