時代の美と異端の美。美って

mxoxnxixcxa2006-01-10

 昨日書いた映画『戦場のメリークリスマス』を見て思ったのは、時代物の作品でも、作られた当時の時代性から免れられないなということだった。
 きっとこの映画は、キャスティング面も大いに脚光を浴びたのだろうけれど、あのビートたけしが俳優を!という驚きは今更だし、デヴィッド・ボウイ坂本龍一の色気は、当時の空気を知っている人間にしか共有できない。当時の世相をリアルタイムで知らない世代には伝わりづらいので、なんだこりゃな力技に見えてしまう。
バスキア [DVD] 坂本教授と言えば白髪の天才素敵オヤジ、ボウイ様といえば元・両性具有宇宙人の素敵オヤジ。もしくは『バスキア』のアンディ・ウォーホルというイメージ。映画の内容も、言語や文化や時代性を超えて共有する、何か普遍的な感情は見当たらない。結局『戦メリ』という映画自体が、時代のあだ花なのだった。でもきっと、こういうあだ花映画がほとんどなのだ。
 時代性を超越する美なんていうのは、もうほとんど異端美みたいなものなのかも知れない。絵画に描かれた美人もその多くが、時代の移ろいとともに単なるdebuやbusuになっていくように、映画の場合だって、美は短いスタンスで切り替わって行く。美貌のピークを過ぎたボウイを、「悪魔のように美しい男」として見るのには、ある種ボウイに対する時代の共有認識が必要で、それは何かって、「だからボウイ様といえば美しいじゃん」という前提込みの美。
ベニスに死す [DVD] ヴィスコンティの見つけ出したタジオの悪魔的な美しさは、あれは異端美だった。男でも女でもなく、子供でも大人でもない。それ故に公開当時の映画評では、「ヴィスコンティは、“ギリシア彫刻のように美しい少年”であるはずのタジオを、アンドロギュノス的な生き物によって壊してしまった」と叩かれもしたみたい。耽美大好きな日本では素早く受け入れられ、むしろタジオブームまで巻き起こったらしいけども。
 そんなビョルンは、今でもなお映画史に残る美のアイコン。そういう例外は少ないし、実物のビョルンは、映画の宣伝で来日した頃にはすでに顔の長い少年に成長していたみたい。たぶん映画には神がいて、それの起こした奇跡的な出会いなのだと思う。時代の空気を無視した美は案外少ないような気がする。モノクロのアラン・ドロンとか、若きエリザベス・テーラーとか。