SAYURIちゃんで出会った無邪気なナショナリズム

 劣等意識がコンプレックスがでかい人間ほど、プライドが高い。これを肝に銘じて、出来るだけ冷静に、怒るんじゃなく余裕をかまして笑うことにしたつもりでも、少々かちんとくる。現代の無邪気なナショナリズムが、プチナショナリズムなんていうちょっとライトでキュートに名付けられたとおりに、まだ若者層に属する私だって多少は愛国心があり、それは少々ゆがんではいても、自国の文化を無邪気に踏みにじられるのは悔しいのだ。
 この映画サユリちゃんが、可笑しなキモノとニホンガミというモノを茶化してゲイシャのジャパンを笑ってみようよという趣旨ならまだしも、何がゲイシャ文化を正しく世界に伝えたい」だ。これはリスペクトという名を借りた文化の無視、侮辱。このドリーミンな日本の姿は、日本人が描いたものなら斬新な解釈と笑ったかも。けれどこれはアメリカによるもので、それを笑い飛ばせないのは、卑小なる日本人の私に問題があるのか?しかし冷静に観ても、ギャグとしても、SFとしても失敗なんじゃなかろうか。ロマンスにしても薄っぺら。
 でも蔓延する愛国心だって結局、日本の未来への閉塞感と焦燥感の反動の産物だっていうのも、わかってはいるつもり。中国映画は好きでも、ニュースで見る中国には腹が立って仕方ないのも、その奥で脅威を感じているからでしょといわれれば、それもあるかもと思う。大使館をめたくたにされても強くしつこく謝罪を要求せぬジャパン。物心がついた頃からメリケンのコピー国ジャパン。がんがん脅されれば牛の輸入だって有耶無耶のまま再開するジャパン。大金積んでも理事国になれるとは限りませんよと言われるジャパン。借金何兆円なんだよっていう。一体どのポイントでジャパンを誇ればいいのだ。残ったカードなんて古い文化しかない。それさえ尊重されないジャパン。なんだかやっぱり悲しい。
 日本人役を中国人がやったっていい。毛唐から見れば見分けなんてつかないだろうし、すっぴんで裸の東洋女を同じ髪型にして並べて見たら、私だって見分けなんてつかない。英語の問題だってあったんだと思う。ネームバリューだってあったろう。でもなんだ、あの青い目は茶髪はぼさぼさ頭は。
 ここになんだか、戦後ずっと強迫みたいに白人にアメリカ文化に憧れ続けてきた日本の姿を見せ付けられたみたいで、だからなんだ、この嫌悪感は結局痛いところをつかれたってこと?絶対違う。じゃあなに、腹が立つのはコンプレックスの裏返しだろうか。何だか複雑。観る人間を試してるのかっていう気がしてきた。
 映画館で散々予告編を見せ付けられ、それだけでどんだけ酷いか分かっていたんだけれど。見ないで文句は言いますまいと思ったのだった。長々キモ長く文句を垂れたってしょうがないわけで、本当は一言でよかったんだ。
SAYURIはくだらない。