愛は地球を救う「生きる」うひゃあ

mxoxnxixcxa2005-08-28

 何となく新聞のテレビ欄を眺める。あ、24時間テレビやっていたんだ。ふーんあっそ。愛は地球を救うかしら。愛は地球を救ったことがあるかしら。愛では地球は救われぬのじゃないかしら。まずこのキャッチコピーが傲慢でイヤ。
 この番組が昔からキモくてたまらず、あざといヤラしい寒いという冷たい感情しか抱けぬのであって、なんとなれば大嫌い。壮大なるお涙頂戴のつくりと、画面でわざわざ涙ぐんでみせる芸能人、街頭でなんだ、あの黄色いTシャツで声を張り上げる若人などなど、全てひっくるめて恐いよ恐いんだ。
 あの会場で今年の司会者・香取慎吾ががこう叫んでみる。「最高ですかー!?」多分会場は熱狂のままに拳を振り上げ「最高です!」と答えるに違いない。「最高ですかー!」「最高です!」「最高ですかあ!!」「最高です!!」「では献金しなさい!」「はい!」
 もしくは呪文のようになにやら自作のお経を唱え、何となれば自作の歌も歌ってやり、終末思想についてだらだら語った後に「隣国のキムをポアしなさい!」「はい!」みたいな。ほら、こういう風景に似ているように見えるよ。私は単に心の狭く冷たい偏屈モノなのかもしれません。
 しかしなんですか、24時間やる必要が?たった一日お祭騒ぎで同情大会するくらいなら、年間通してキャンペーンやりゃよろしいよ。あのフィナーレも製作者出演者の自己満足しか感じられず、感動の大安売り。感涙の押し売り。一丸となって泣き叫ぶあの画面はなんだか狂気じみたものがあり、あの場にいたら絶対に泣かなきゃいけないように見えて恐い。しかしあそこには強力なコントロールがかけられているので、誰でも勝手に泣いてしまうに違いない。
 慈善事業やボランティア活動の、自己満足の側面を否定するべきじゃない。「人から必要とされたい」「自分にも何か出来ることがあるんだ」「イイ事をしたい・したんだ」と思うことは自然な欲求であろうし、「いや、そんな私は人のためだけにやっておる」というのはどこか傲慢でヤラしい。しかし日本の慈善信者はこういうことを言うと頑なになり、「偽善だ」と言われると真っ赤になってこちらの人格攻撃をしてくるよ。
 そもそも欧米のボランティア精神や施しの文化なるものは、それを支える宗教的道徳観が「金持ちが天国の門に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が容易い」というヒーロー・キリストの有り難いお言葉が根にある。それに宗教観が崩壊しつつあるとは言われていても資産家が変わらずチャリティー活動に精を出すのだって、それが社会において一定のステイタスだから。このステイタス精神は、歴史のないアメリカで美術館をあそこまでに育てあげたパワーでもあるわけ。
 イイ事をするのはイイ事だと思うし、心や財布にゆとりがあるならどんどんやって然るべき。イイ事をしようとしている人を茶化したり否定したりするべきじゃないのも、分かってはいるのだけれども。でもやみくもな「何かイイこと」なんてものはないわけで、同情だけじゃ世界は救えないさ。
 私は何がいいたかったので有りましょうか。だからあの24時間テレビはあざとくてキモイと言いたかったんだ。あれに賛同するのは、何か違う意図にノセられているだけに思えると糾弾したかったんだ。壮大なキャッチコピーがむかむかすると言いたかったんだ。「生きる」ってなんだい全くもう。地球を救いたいわりには、超個人的なテーマ。