妖怪ハハ様

 くさくさするので、ここで一気にブログというツールですっきりしようと試みる。
 ハハオヤという、このねちょねちょとへばりつく化け物と対等に戦える日は、世界中の娘達にいつかやって来るんだろうか。しかしそんな妖怪・ハハオヤにだって立派なハハオヤがいるわけで、なんともはや。しょうがねーな。そう思っていくしかないのだろう。ハハオヤにはなりたくないよ。どうせ「そんなこと言うなら生むんじゃねーよ」とか身勝手な理論を振りかざされ、憎まれて反目しあって、ああもうハハオヤになんかなるもんかとか思われるのだ馬鹿馬鹿しい。
 私とてもう成人。それでも立ち姿の姿勢が悪いなど、どうでもいい指摘を受ける。ああもう私これが普通なんすけど。呟けば、「肩に力を入れっぱなしで、見ている方が疲れる」とかわがままを言う。「お前のために言っているのだ何故素直に聞けぬ。だからお前は駄目な人間。常識もなく社会性もなく教養もなく素直さもない。人の話を素直に聞けぬ人間はもうお仕舞い。世間で通用するはずない」なんて、産んだ人に存在を根底からとことんまで感情的に斬られると、さすがにしょんぼりする。その愛情から正しいことを言ってこちらの逃げ道を塞いでも、ハハオヤに悪気はないのだ。言い返しても不毛。ああ私は人を褒めて伸ばす人間様になろう頑張って。
 違う次元で生きよう。少女時代そう思って、ハハオヤの嫌いなおどろおどろしい世界に没頭した。とことんまでアンチクライストになり、ホラー映画を山ほど楽しみ、日焼けサロンに入り浸った。渋沢龍彦を乱読し、ハンス・ベルメールを愛し、四谷シモンの「解剖学の少年」とかを愛でてある程度は成功したかに思えたが、大問題が。
「あんた偏り過ぎ。レヴィスト・ローズやレイチェル・カーソンボーヴォワールくらいは常識として、最低読まんかい」とかなんとかまっとうな突込みを入れられ。「ホラーばっかし見たから精神的に不安定なんじゃい。深層心理のレベルでどうのこうの」とか存在をユングな心理学で斬られるとたまらんわ。一番不安定なのはあんたなんすけど。感情の起伏が唐突過ぎ。と頭の中で言い返す。たとえ私の逃げ道を塞ごうとも、不器用な愛情なのだということも分かっているし、結局私はこの愛しい化け物が可愛いのだ。
 でもでも、いつまでたっても私は何も知らぬ常識のない娘。ああ賢くなりたいよ情けなくってもう。理論武装してもやはり勝てず、いつまでもハハオヤの概念を存在丸ごとミキサーにかけて飲み干しちゃうなんてささいなことが出来ぬ。でもその立ち居地に甘んじてい続ける私もいるわけで、ジレンマは続く。ハハオヤを引き剥がして捨てるということをせぬもまた自分自身。でも時々、アイデンティティが自分のものなのかハハオヤの借りものなのか分からなくなる。私は精神年齢が低いのだろう。
 しかし無駄にインテリな専業主婦って恐い。夜なべして手袋でも編んでくれる無学なハハオヤの方が、はるかに愛しやすいのではなかろうか。専業主婦が現代社会の癌みたいなことをいう人が最近多いけど、そうは思わないながらも、くさくさしたまま箱の中にいることは問題ではないのか。だから主婦達がペ様を追っかけたり、アイドルを追っかけたりするのは、一見異様な風景に見えても可愛らしいし、第一健全なのだと思う。それを「知的じゃない」なんて軽蔑する専業主婦の方が、抱える問題は深刻っぽいよ。
 確かにハハオヤは10代を勉強で明け暮れ、非常にいい大学出。私など、そんなお眼鏡には到底かなわぬ存在。かくあるべき娘像の通りではない。でもでもどうせ何をやっても不機嫌な果実・ハハオヤは満足しない。でも愛しいのだ小憎いから。ああ。いつか踏んづけてやる。
 発達心理学や情操教育本など山ほど読み漁っていても、人間同士の摩擦では結局机上の空論なのだろう。立派な母親像の枠を作り、その枠に自ら悩みこむハハ。一歩引くことや聞き流すことを覚えて居なかった私の10代は、ねちょねちょとしてどろどろした潰し合いだった。
 高度な教育を受けた団塊世代。私の人生ってなんだったのと子供に問いかけてくれるな存在に境界線を引いてください。ボーダーっぽ過ぎる我ハハには、産み落とした生き物の感情を慮るといったことが決定的に欠如している。それは私にも引き継がれているに違いないよ嫌だね。