第77回米アカデミー賞

 本命なき年といわれた今年。その通り受賞結果を見てもふーん、な感想。ケイト・ブランシェットモーガン・フリーマン受賞は嬉しい。「レオ様、受賞をまたも逃す」ばかりが踊る。レオナルド・ディカプリオは、このままトム・クルーズ路線へ行ってしまうのか。
 だいたい2枚目俳優は損だと言うけれども、それはあるのかもしれない。不細工もしくは微妙な顔だったら、妙な演技と強いクセを披露すれば、性格俳優だ演技派だという評価をもらえる。一方それをハンサムボーイがやればへたくそ、わかってない、大根、勘違いなどといわれてしまう。
 元々天才俳優というスタンスにいたのに、大商業映画『タイタニック』に大抜擢され、それがまた記録には残っても記憶には残らぬ大作であったために、どうもこのあたりからレオ様の道がぶれだした。そこで作品選びに慎重になってしまったのもまずかった。どう考えても『タイタニック』はターニングポイント。それまではかなりいいものばかりに出ていたし、作品選びのセンスも演技とともに評価が高かった。レオ様は慎重になりすぎて、それ以降たいした作品に出ていないような感がある。今作同様マーティン・スコセッシとタッグを組んだ『ギャング・オブ・ニューヨーク』など、メディアの下馬評に期待して観てみたら、単なる赤組ワルvs青組ワルの喧嘩だった。
 でもたぶん、レオ様はまだトム様のように「アカデミーなんかいい。映画はビッグマネーを転がすエンターテイメント」という絶対的な自信を持つに到っていない。役者として評価されたい、という気持ちがあるに違いないし、第一もったいないよ。『インファナル・アフェア』もリメイク&スコセッシとなると、かなり心配な部分がある。レオ様も賞が欲しいと真剣に考えるならば、ここで冷静に演技賞というものを分析してみるべき。
 賞をとりやすい役というのは存在する。まず『ギルバート・グレイブ』でなぜノミネートされたかというと、確かな演技力に加えてあれは知的障害者役だったから。障害者や狂人・異常者なんかは逆差別のようなもので、入り込んでやってしまえば大抵の場合ある程度サマになり、すごい熱演に見えてしまう。もしくはアル中でDVしまくりのもうどうしようもなく情けない奴とか、幼少期のトラウマを抱えて日々くさくさとして人生何もかもうまく行ってない男とか、エディプス・コンプレックスをうまく乗り越えられないまま自己を抑圧し続ける影ある殺人者とか、本気で獲りにくるなら役を選ぶべき。ここはエンターテイメント性よりも、分かりやすい社会派、ヒューマンドラマに出たらいいのに。
 もしくは、ニコール・キッドマンシャーリーズ・セロンのような目が眩むようにまぶしい美人がオスカーを取るには、どうしたか。徹底的にブスになる。これ。超汚いブス男の役をもらい、特殊メイクで見ている世界の女子ども全員が吐き気を催すような凄まじい顔で、切ない演技を披露し泣かせる。これしかないのだろうか。マーティン・スコセッシ無冠のなんとかなのも、しょうがない感じ。最近の作品はかつての高評価を食い潰しているばかり。今作は未だ観ていないしなんとも言えないけれども。