タリちゃんやっぱり気になるよ

 捜査員を「おまえ」呼ばわりしちゃうエラそうなタリウムちゃんにやっぱり興味があるので、あちこちまとめサイトとかに行ったり、話題になっていた『絶望の世界』のキャッシュを読んだ。これは主観のみで書かれているためについぞ引き込まれるような構成になっていて、さらっと読み進んでしまう割には随所に仕掛けがあったりしてすごく巧く出来ている印象。過剰な感情表現も、これがセカイ系かぁと思わせる説得力がある。いじめられっこが一人称で内面を吐露しながら、いじめっこに仕返しをし、自己正当化しながらパワーアップしていくのだ。その実どんどん壊れていくんだけども。上の段に話を限っていけば、とても孤独で、屈折していて、不器用で純粋で切ない「僕」が、感傷的でありながら常に僕自身を客体化しているような文章になっている。
 本当にタリちゃん日記の文体と似ていて、それどころか、タリちゃん日記で気になっていた文章、
僕の中に居る彼女の存在を感じなくなりました。消えてしまったのでしょうか」というくだり、こいつが本文では、
僕の中にいる虫の存在を感じなくなりました。消えてしまったのでしょうか。」なんていうそのまんまの形で出てくる。シンパシーやらカタルシスやら手垢のついた言葉ががんがん思い浮かんだ。タリウムちゃんを知りたい私はこの日記小説を読んで勝手に納得したのだった。
 少女のもつ夢見がちな世界観や、少女性という響きが喚起させるある種のイメージにものすごく興味があるんだけれど、報道だけだとタリウムちゃんはまったく掴めない。けれどやっぱりタリウムちゃんはコピーキャットボク女なんじゃないかしらと思う。誰にもかまわれない女子が独りくさくさポイズンヒーローに憧れ、毒物を手に入れることで力を手にして自分の中でレベルアップを図り、大好きなお話の主人公に自らを重ね合わせて仮想空間で何者かに成りきる。「わたし」のままだと弱くて孤独な少女でしかないけれど、なれば理想の「僕」になればいいじゃんっていう。多重人格を疑う意見を良く見かけるけど、変身願望なんじゃないかしらと思う。

ボク女のキーワード編集をして教えてください

 私はなんだかボク女が何たるかをよく理解していないのかも知れず、随分前に見た自殺サイト関連のドキュメンタリー番組で、30代の主婦が子供までいるくせに幼女の頃からずっと死にたいと思ってますと胸を張り、原稿用紙何十枚にも綴った怨み節「ボクポエ夢」を泣きながら読んでいて、「お母さん、ボクはいらない子ですか、どうしてボクを愛してくれなかったんですか」みたいな凄まじい光景を見たときに感じるある種の嫌悪感。
 これが自分ワールドに生きるボク女の極まった姿だと思い込んでいる私の理解は違っているのかも知れません。「ボク女=強力なナルシシズムを発するやや病んだ子ちゃんが自己表現する際に用いるセンチメンタルな別人格」、という思い込みを持っていますと断った上で思うのは、そもそも女子がわざわざ一人称に「僕」を使って書き付けるものには、明確なキャラクター設定がなされた演出性の高さっていう共通点がありそう。
 実生活は別として、一人称を「僕」にする女子はあまり珍しくない。歌詞でも頻出するし、小説や詩でもけっこうある。女子が内面を吐露しようと感情的な文章を書き綴るとき、「私」というとそこにはある種の生々しさが生じてしまう。なればあえてそこに「僕」を使ってみると、何か立派にキャラ立ちしてしまうのだ。痛みも苦痛も憎しみも、「僕」にゆだねてしまえ。そうすることで逆に感傷的な気分により強く浸れるのかも。そこにはなんだか成熟に対する、女であることに対する否定的な感情がなくもないような気がしなくもない。けれどその理由はまたいつか。私はとかく10代の女子の切羽詰った感じに愛しさみたいなものを感じて、何にしても女子高生母親毒殺未遂事件ネタはもう今更なんだけども。フルで書くと凄い字面。