僕らの音楽 鬼束ちひろさんに驚愕する

mxoxnxixcxa2007-06-01

 先ほどテレビをつけたのです。あ、鬼束ちひろさんだ、久しぶりだなぁ。休業から復活したんだ…え?
 鬼束さん?!一体この人の身に何が起こっていたのですか!人相が!人相が別人だわ大変よ!と、プロデューサーの小林さんと会話する鬼束さんの、全身全ての筋肉が弛緩し、感情もフラットに整備されているかのような平坦な声のトーンと、独特の間と、穴のような目を見ながら、即座に友人のことを思い出しました。今まさにつぶれて自宅にこもっている、メランコリーな病を抱える友人のことを。すみません、私は鬼束さんの知り合いではありませんが、彼女、安定剤飲んでるだろう?
 そうして、必要以上に全ての感覚がフラットになりきってしまっている鬼束さんが、歌いだしました。その昔、「I hate myself and I want to die」など言って、猟銃を自らの頭部にぶっ放して死んでしまったカリスマの名曲を。Smells like teen spiritTori Amosバージョンで。
 そしてまたトーク。すみません、画面に釘付けなのに、愕然としていた私に内容はほとんど残りませんでした。どうしてこの人は、この時期に音楽シーンに戻ってこようと思ったのだろう。何だか痛ましくて、プロだなんだというのを通り越して悲しくなりました。休み続けると忘れ去られてしまいそうで、恐かったんだろうか。
 そうして、新曲を披露する鬼束さん。おお…あの歌唱力はどこへ。私はあまり詳しくはないですが、たしかこの人は重い歌を歌っても生き生きとした力強さと、なんだかんだで陽のパワーがあったように思い出すのですが、壮絶なまでの負のオーラを暗い穴のような目と全身から放っていて、変わり果てた姿にいたたまれない気持ちに。平たく言うと下手でした。
 で、最後に私も結構好きだった曲を歌っていたのですが、感想は一言、むごいな…。彼女が何を失って休業したのか、その間に何をなくしたのかは知りません。そして断言もしませんが、鬱になって変わり果ててしまった知人の姿とあまりに似ているのでここでひとまず一般人として勝手に有名人にレッテルを貼ってしまいますが、鬱ってこんなにも惨いものかと、悲しくなりました。 
 人前に出て、自らのアイデンティティで勝負する表現者が、時代の波にのって成功するとき、恐らく本人が望んでいた以上の賞賛や依存を受けるのだと思う。けれど身に受けるのはそれだけではなくて、同じくらいの重さのいわれのない嫌悪や、会ったこともない人からの激しい憎しみや侮蔑をもぶつけられても、仕方のない職業なわけで。その全てを浴び続けても平然としていけるだけの、強さや鈍さや強力な自己愛がなければ、とてもじゃないけれど、もたないのじゃないかしら。だから、ミュージシャンが自身も何かよって立つ支えを求めて宗教に走ったり、解散・休業してリセットを図ったり、はたまたカートやその他の人のように自ら死んでしまったり。大変な職業だ。
 まったく気の毒なことではあるけれど、大衆に向けて何かを訴えることで、表現者側は自分の欲しいものを手にしているわけで。音楽に限らず美術でも何でも、芸術は対象者ナシには表現として成り立たないし(いくつかの例外はあるけれど)、対象者の目を意識しない表現なんて建前としての嘘でしかない。才能があって尚且つ運に恵まれた一握りの成功者になれたとしても、結局多くのものを引き換えに差し出す行為なのだな、それって、天秤にかければ必ずしもつりあうものとは限らないって事なのかなぁなんて、鬼束さんを眺めながら何となく考えたんだった。
 特にファンではない私が番組を見終わって考えたのは、かわいそうに、可哀相に可哀想に。これだけです。ずっと待ってたファンの人たちはどう思ったんだろう。応援しますよ、でも、彼女はもうダメじゃないかなぁ。少なくとも、過去のような賞賛と栄光を手に入れることは。それは再結成、再活動したミュージシャンみんな同じようなもの。鬼束さんがよく比較される女性歌手だってそう。人気商売って恐い。動かす側は、使い捨てればいいだけの話なんだろうけども。