ようし、ここは一発もう死んじゃうか

 もう一段落したのかもしれないけれど、自殺ブームをニュースで見かけるたびに、え、これって先週のとは別?という感じだった。だからといって特に胸を痛めるでもなく、所詮他人の生きにくさなんて、好奇心半分で眺めている内にさらっと流れていく。次々と簡単に絶望して、簡単に死んでいく。命なんてそう重いものでもなくて、一線を踏み越えてしまえば呆気なく逝ってしまえる。だからこそ、命は重いんだ!とモラルでラベリングして駄目押しするしかないんだろうけれども。
 幸い私の周囲には自分を殺すことに成功した人はいないために、“自殺”という単語を眼にすると、不謹慎だけれど最大のタブーを覗き見したような野次馬根性が頭をもたげる。どこかこう、ぼんやりと甘い誘惑が潜んでいるというか、出来ないからこそほんのりと憧れがあるというか。だいたい、嗚呼生きてるって最高!とか考えながら生きている人の方が圧倒的に少ないはずで、たいていの人は「こんなはずだったんだろうか」、「どうしてこんなことになってしまったんだろう」、「もう疲れたな、全部置いてどっかに消えてえな」とどこかで思いながらも、ようし、ここは奮起して思い切って死んじゃうか!と考える前に、社会的な存在としての自分というのも無視できないわけで、仕方なしに渋々生きているようなものなんじゃないのか。最初から生まれてこなかった方がラクだよな、でもそんなこと言っててもしょうがないしね。みたいな。
 だから私のような心の冷たい自己中は、なんだか抜け駆けされたような、ずるされたような気がしてきて、あまり優しい気持ちになれない。ネットの集団自殺にいたっては、軽蔑以外の感情を抱きようが無い。絶望は傲慢さの裏返しと言われるように、たぶんきっと、そうは安易に絶望して良いわけではないと思う。それでも、古今の歴史上で自ら死を選んだ芸術家や文筆家は別モノと思っている時点で、単に私は心が狭いのだ。彼らは絶望と戦いきって、作品を残したんだった。その結果戦線脱落したわけで、いじめくらいで死んだらただの負け犬じゃないの。先に死んだ時点で、いじめた側に復讐なんて出来ないよ、単に「イヤな過去」になるだけ。
 と思っていたら先日ニュースで、遺書に名前を書かれていた5人の少女が学校に行けなくなっている、というのを見かけた時には、おお、良かったね良かったねと、死んでしまった乙女に向かって思った。せっかく死んだんだから、死んだからには相手の人生を多少なりとも破壊できなければ、浮かばれないよね。あの世があるなら、そこで彼女は小躍りしたはず。たぶんきっと。
 加えて、「死んで身の潔白を証明する」とか、「死んで責任を取る」というような日本人特有の死の美学は、いい加減どうにかしてよいのでは?と思うのは、高校の履修問題で、渦中の学校の校長がさくっと死んで、「生徒の皆さんは何も悪くはないですから」という意味の遺書を残したとニュースを伝えるキャスターやアナウンサーの微妙な表情。テレビの中の人も見ている側も、「死ねばいいってもんじゃねえだろ?単にお前は逃げたんだろう?」と思ってる。即身仏とか、自決を潔さや美徳としてきた国においては、自殺を禁忌とする宗教的概念が社会的モラルの基盤に無い、というか、なんとなあく、「周囲に迷惑をかけるからダメ」、「親から貰った命を粗末にしちゃダメ」、という程度の答えで、「神が禁じているから」くらいの強いインパクトの禁じ手ではないために、「死を持って意思表明をした人を悪く言うものではない」となってしまう。
 これは私がアンチキリスト教でありながら、結局幼少期からカトリックに洗脳されているっていうことなんだろうか。でも良い大人の責任の取り方が自決って。それはただひたすらズルいだろう?みたいな。