胸張って無になるこの此岸

 キーボードは肉筆よりも容易く思考が文章化されるために、言葉が流れるみたいに感情的なものになりやすく、それが語り口調の文章なれば、まるで自分に向かって話しかけられているかのような臨場感があり、私なんかはもう勝手にいろいろな人と脳内友人になって、溢れいでる他者の感情に共振し、ともに泣いたりひゃっほう言って浮かれてしまう。
 とくに負の感情は呆気なく伝染するので、あまりにも鬱々した場所には触れたくないというか、不エネルギーが満ち満ちた所も触らないが吉。来る日も来る日も人様の不安や苦悩や絶望や自傷日記を読んで、ああ何か分かるわーみたいに共感していたら、感染してやがて本当に一線を越えてしまう。
 ずぶずぶ飲み込まれてしまう恐い。書いているほうもはまって出られなくなりはしないかしら。思考の転換が出来ないまま、風穴を開ける暇なく煮詰まる一方じゃきつい。苦しんでいる自分に酔ってんのかと思ってしまうのは、私の心が狭いからだった。「誰もボクのことなど分かってくれない。流れる血のみがボクを癒す。誰もがボクを無視する。ああ切らずにいられない」とかなんとかいうポエ夢がどんだけ溢れているかっていう。浸ってんじゃないわよ苦悩ボケ!みたいな。冷たいなぁ酷い人。
 此岸の生きづらさはみな同じ。生れ落ちた時点で等しく可哀想なので、望む望まぬに関係なく、死ぬまでの期間を何とか良きものにしなければと頑張り、頑張って頑張って死ぬまでは走るよね、それで?と思ったらその最終着地点が、満足して死ぬためっていうくらいのものなんだから、人生はものすごく因果だわ。ああ舎利子。これが諸行無常か。いや色即是空か。そう思うとき、ああ宗教って人間が自らを慰めるために探し出した知恵なんだなぁと実感する。
 人生の不条理や理不尽は誰でも同程度だと思えば、だったら出来るだけハッピーなことを考えて、くさくさするばかりの日常を少しでも楽しくしようと努めたいのだ。しかしなんだ、人生楽しむにはささやかな諭吉がものを言う。歌舞伎に行きたい映画に行きたいバレエに行きたい舞台にいきたい旅行もしたい。あの本が欲しいあの服が欲しいあの家具欲しいあのCD欲しいあのDVD欲しいあの家欲しい欲しい欲しい欲しい。物欲の固まりで困る。世の中やっぱり諭吉じゃないか!
 それで時々考えてしまう。不平等だ。なんだかフェアじゃない。下を見たってきりがなくても、上を見たってきりがないんだもの。存在するだけで金を要求され、生命維持に大枚を叩き、追われ追われて楽しむ暇も見失いそうになる。欲しい服や家具がいちいち目を見張る値段であることにショックを受ける我が身を眺めて、ああ私は選ばれていないと思うとき、何もかもがイヤになってしまう。
 え、あれ?じゃあ一体何に選ばれなかったのだ。運に?神に?と思えば、こんなことで悩むのは太古の昔からの人間の性でしかなく、そんな壮大なことを考えるよりは、もっと目先の楽しいことにばかり目を向けたほうが得策っぽい。
 そんなことを自分に言い聞かせた日だった。