神。神様。何故ゆえ神か。

「HED目覚める」に考え込む。「イエス・キリストを救世主として受け入れ」、イスラエルに向かうというウェルチKorn側の「彼が探し求めている幸せを見つけられるよう祈っている」というコメントも切ない。
 特に政治的にも道徳的にもベースとなる特定の国家的宗教を持たぬ、わりかし適当でいい加減な宗教観の日本国で、たまたまカトリックの親の下に生まれたために、知らぬ間に洗礼を受け初聖体もすませ、信仰心のぬるい、かなり堕落した名目上カトリック信徒として育った私は、特にこの神という存在がらみの出来事に出会うと、なんだか考え込んでしまう。そもそもこの、なんでもいいやと勢いでつけたユーザー名mxoxnxixcxa。字面みたところ、かなりださい目。アウグスティヌスの母monica。こうしておけばよかったのかモニカ。私の洗礼名です。思いつかなかったから適当に使った。
 西洋人の、特に米人のイエス・キリストがらみの熱狂的な、むしろ狂信的な流れというものは、一応カトリックとしての最低レベルの知識は持ち合わせている私にとっても、やはり理解しにくい。有名な「米人の銃信仰」にも見られるように、宗教はあくまでも後からついてきた国家ゆえに、カルトティックな傾向は欧州よりも圧倒的に強いのだろう。その辺は日本の、個人の存在のベースに神などというものは想定されておらず、すでにお天道様信仰も消え果た中途半端な土壌で、ふとしたきっかけで新興宗教が近寄って来るのと似ているのかも。
 とにかく神というこの厄介なものに、何故これほど人々は大きく左右されるのか。哲学者や科学者までもが、必然的に神の存在について言明せんければならぬような西洋。いてもいなくてもどっちでも、ハッピーならそれでいいんじゃん?な日本人からすると、かなり理解不能。西洋の哲学史とは、常にこの神と人間との問題だった。
 天災を始め自分の力ではどうしようもない事態に見舞われた時、人はどのように感じるのかという文章を読んだことがある。民族や宗教によっても違うけれども、「何故このようなことが起こるのか」と人は考える。そこに「神は、何故このようなことをするか」「神様、とても耐えられません」。それがたとえ神に対する憎しみの感情であっても、矛先として存在することに意義がある。
 暖かい部屋でソファーに座ってニュースなんか見ていると、ジャパンにいながらにしてそれを垣間見ることがある。巡礼から戻ると、家や家族が津波に流されていた男が「アラー」と呟く。米軍に家を破壊されて子供を失った母親が空に向かって「アラー復讐を祈ります」と言って泣き叫んでいる。ヨハネ=パウロ2世が、パーキンソンの手をぶるぶるさせながら祈祷をささげ、人々を祝福する。
 世界は各々の人間の不平等によって成り立っているわけで、でも人生の理不尽や不条理は、貧富に関係なく平等。背負いきれない不条理を前にした時、寄り添う何かの存在、「なぜですか」と問いかける相手が必要とのこと。これが、おっとりした日本人の風土や民俗にどれだけ合致するかはあずかり知らぬけれども、そんな神様は、人間の理知が産んだ最も優れた「発明」だそう。最も優れた「発見」は火だそうですが。
 個人的な経験から言えば、幼児洗礼っていかがなものかとも思う。人間はアダムとイブから始まったと、幼稚園の頃日曜学校で神父様が言っていたから、すっかり信じていた。小学校へ入り、どうやら人類の祖は「猿」だったらしいと知る。ママに聞いてみると、「・・・そうだよ。」と微妙な答え。アダムの話は嘘なのか、という問いかけに対するママの反応は、「サンタはいるのか」というのに対する態度に似て曖昧だった。矛盾してるじゃん。人間は猿であり、アダムもいた。ママ論理破綻してますが。つっこむと母はキレた。こりゃもう神は嘘。かつてのマリリン・マンソンに対抗できるくらい強力なアンチ・クライストになってしまった。
 以降、遠慮なく神につっこみまくる。だいたい旧約聖書の神様は、すぐキレる、人を試す、都市を焼き洪水を起こし、なんか暴力的で意地悪。排他的だし、心が狭いよ神の癖に。キリストだって一人でかっこよすぎ。ひとりで特別すぎ。そもそもキリスト教ヒューマニズムが、世界をこんなにしたのではなかろうか。あまねく人間は大いなる宇宙の塵芥に過ぎないと自覚すべき。神様最悪。どうせ人間の救われたい気持ちが生んだ単なる発明。人は一人で耐えるべき。色即是空、空即是色。世の中はかくなる価値観の元に傲慢さを捨てるべき。10代の頃そう思っていた。
 ようよう大人になった。神は信じる人しか救わぬのではなくて、信じる人にとってしか存在しないのだと知る。なので、せめて信じる人を否定はしないことに決めた。有名な誰かが言っていた。「神や宗教は所詮、杖のようなもの。なくても歩ける。しかしあれば歩きやすい。足をくじき、立ち上がれない時などは特に」。
 便利なものというスタンスでもいいのかも。斜めに眺めるのをやめてみたら、楽しめるものもぐっと増え。絵画も映画も小説も。それに新興宗教の勧誘にあっても断りやすいのも良かった。「え、いいです」 「でも、お話だけでも」 「や、私カトリックなんで、足りてます」